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59-- 「足と因縁」2970字 4-16-07  モントレーの山奥から心の叫び7

怖い夢で目が覚めたのではなかった。
足の痛みで目が覚めた。
会社の寮で布団が5つか6つ並べられてある2階の部屋の布団の中の朝方であった。
目が覚めた途端に、頭の芯まで突き刺さるような痛みが右足首踵から発信している。
もう痛くてたまらない。
こんな痛みは今までに経験した事がない。
目が磁石で引き付けられるように、足元へ行った。
足元の布団を開けてみると、右足が像の足のように腫れているではないか。
私の足である。
確かに像の足の大きさはあった。
布団から起きることもできない、身動きすることさえも痛い。
痛みの中で、ぼんやりと薄暗く、夕べのことが思い出された。
便所の戸と思って開けたのは2階の窓のガラス戸だったのである。
入ったのは便所ではなく2階の窓の外の空気中だった。
足から先にまっすぐに落ちて、階下のアスファルトの道路に右足で立ったのが思い出された。
どうしてまた2階に戻って布団にもぐりこんだかは覚えていない。
夜中の事だったから、誰も、私が、2階から落ちたことは気づいていなかった。
私自身も落ちた確証はなかった。
朝一番に私の布団に来た奴に、「夕べは飲みすぎて、そこの道のコンクリートの塀を足で思い切り蹴ったんがこの始末や」、と言ってごまかした。
とうとう医者にも行かないで2週間ぐらい布団に寝たままで治ってしまった。
2階から真っ直ぐに落ちて右足で立った、その足が医者へ行かないで治ってしまった。
世の中にはこんな不思議なこともある。
これは私の喜界島のウヤフジ(ご先祖様)が治してくれたと思っている。
「ウヤフジは戒めてから、治してまでくれたのや」。
喜界島のオメトおばあさんなら、必ずこう言った筈である。
 私の人生は手よりも足にまつわる思い出の病気、怪我が多いようである。
この足の話は21歳の頃の話である。
東京文京区小石川にあった、おばさんの小さな印刷屋でアルバイトをしていた。
仕事が終わると仲間とすぐ近くの柳町商店街の酒屋へ行って、立ち飲みしながら、仕事の鬱憤を晴らすのが一番の楽しみであった。
そこでいい加減に酔って、次に、おばさんの家の横にある2階の寮で思いっきり酔う。
 寮に住んでいるのは喜界島の私の小野津村出身の若者が多かった。
中学を卒業すると私の村の多くの若者がこの東京文京区小石川周辺の印刷屋に集団就職した。
東京の印刷業界では名の知れていた三晃印刷、慶昌堂、そして、その下請けの小さな印刷屋、鉛版屋さんの多くが私の村出身の先輩が経営していた。
三晃印刷の社長さんは日本印刷組合の組合長をしたこともあるから、島では相当な有名人だった。
慶昌堂の社長は私の親父の腹違いの兄弟である。
その有名な先輩にあこがれて、頑張って独立して印刷屋さんを経営している私の村の人は今でも東京に沢山いる。
 普通語(日本語)の苦手な島の若者は東京の酒屋の親父さんを相手にはまだ日本語が流暢に口から出てこない。
まだよく知らない、慣れてない東京、そして、すらすらと日本語が出てこないから、バーやキャバレーへ行きたくても行けない。
英語に自信がないから、今だにアメリカのバーへ行けない今の私と同じ心境だったと思う。
 酒屋で立ち飲みの後は、寮で、島の方言で語らいながらの島の話や女友達の話に毎晩夜明けま飲み続けた。
みんな若いし、グテングテンになるまで酔う。
いくら酔っ払って我を忘れても誰かが面倒を見る。
これが同じ村同士者のよさだ。
この毎晩の小さな宴会が唯一のヤマトでの楽しみだったように覚えている。
酒が切れると必ず誰かがポケットからグシャグシャの紙幣を出して、一番若い奴を二人以上一緒に酒屋に行かせて酒を調達した。
二人以上行かせるのは理由があった。
日本語が通じないかもしれないのと、まだ田舎もんだから、買い物の度胸がないからだった。
 いつものように島の若い奴が7、8人集まって飲んだ夜に私の足は像の足になったのである。
この夜の出来事は私は東京を離れて、大阪に行っても、その事件のことは誰にも漏らさなかった。
自分の恥よりも、私の先祖代々長年続いた村でも古い上園田家の歴史に汚点を残すかもしれないと、気にしていたようである。
私の足にまつわる思い出話はまだある。
夜間高校生の頃は電通の運動会のマラソンを素足で走り、アスファルトの熱さで火傷をしそうになりながら走って2位に入賞して、有名になったこともある。
小さい頃、板に打ち込まれた釘を踏んで、足が腫れた思い出は何回もある。小学5年生の頃は馬に鋤をつけて畑を耕やしながら、危うく、鋤で、足の脛を切りそうになったこともある。
でもなんとなく大事にならなくてすんでいる。
 アメリカに来てからはとうとう、足が動けなくなって身体障害者になってしもうた。
ビールの飲みすぎで痛風、関節炎になって両足の膝がまた像の足みたいに何回も腫れて、とうとう、大工仕事ができなくなり、身体障害者になったのである。
自分の足だけではない、喜界島で私は小さい頃、もの作りが好きだったから、よく金槌で板に釘を打って、箱みたいなのを作ったり、潰したりしていた。
釘のついたままの板をそこらに放ったらかしにし、素足の美代ねえがその釘のついた板を踏んで、化膿させて苦しませたこともあった。
 これは私のことではないけれども、私の親父も、昔、サトウキビの刈り入れの一番忙しい時期に足に釘を踏んで、その年はとうとう、収入源である砂糖つくりができなかっとことを覚えている。
「こんな忙しい砂糖の時期に!!」。
その時のお袋の怒っていた顔が今でも思い出される。
でも、どうして、親父はわざと釘を踏んだのではないのに、お袋がそうかんかんに怒ったかわからなかった。
今思うとあの当時、お袋と親父はあまり仲がよくなかったような気がする。 私は親父の父、つまり私のおじいさんは知らないが、生前、彼も片足が悪くてビッコを引いていたという。
やはり前世の何かの因縁だろうか。
それにしても私は人間様だけでなく、私がパラグアイで飼った豚までもが、後ろ足の右か左がビッコだった。
その豚から、生まれた5匹の子豚の何匹かもやはり後ろ足の右か左がビッコだった。
私は今までの私の足にまつわる話をこの手で究明したくなった。
豚たちを殺して肉にして売る前に、豚のビッコの足を、外科医のように包丁で手術して、詳しく、調べてみた。
そしたら、どのビッコの豚の足も、同じ所の小さな針ほどの神経が黒くなって固まっていた。
どうして、私の飼った親豚も子豚も、親父も、私も、おじいさんも、足にまつわる病気が多いのでしょうか。
これを前世の因縁というものでしょうか。
これを自然の摂理というのでしょうか。
昔の喜界島の年寄りたちはよく言っていた。
「悪いことをするな、ええことをせよ、お天道様が、雨だれに隠れて見ている」。
 小さい頃、親父からよく聞かされていた話を思い出した。
「種子島鉄砲ができた頃、よその村から侵入者があったら、鉄砲を持って、追っ払っていたらしい。うちの祖先はその侵入者を射殺したら、かわいそうやと思い、足をめがけて、鉄砲を放ったそうである」。
でも、わからない、足をめがけて鉄砲を打ったが、鉄砲の引き金を引いたのは手である。
 私は足にまつわる病気が多かったが、足は私を、物書きの端くれではあるが 、作家と呼ばせるようにしてくれた。
足の病気のお陰で大工仕事が出来なり、文章の書き方を始めさせた。
「フリムン徳さんの波瀾万丈記」という本まで出版できた。
足のお陰と思っている。
自然の神様は陰と陽を巧みに使って、自然界を調節しているようである。4-16-2007 フリムン徳さん

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