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17-- 「合縁奇縁」 8-18-2013    モントレーの山奥から心の叫び 

70歳にして、こんなに連続して合縁奇縁というものを感じたのは生まれて始めてである。 
もしかしたら、普通の人間では出来ない天国旅行を経験した私、フリムン徳さんは合縁奇縁に巡り合う何かの力が強いのだろうか。
カリフォニア、南米パラグアイ、東京、喜界島をあっという間に結んだ合縁奇縁の始まりはカリフォニアのばあさんブログが始まりだった。
3年ぐらい前に私の名前”フリムン徳さん”を検索していたら、”カリフォニアのばあさんブログ”という名前が出ていた。
これも何かの縁やと思い、ブログのコメント欄に何かを書いた記憶がある。
そしたら、折り返しメールが入った。
とても、嬉しく、わくわく気分になった。
以前、ロスアンジェルスの日本語月刊誌”TVファン誌”で掲載されていた私のエッセイをよく読んでいたという。   
何モノ知らずのあつかましい私はすぐに、私のエッセイを掲載してくださいとメールを送った。
物書きの端くれの私は自分の書いたエッセイを一人でも多くの人に読んでもらいたくてウズウズしているのである。  
そして、100人に読んでもらって、一人でもいいから、コメントが欲しいのである。
難儀な商売である。
この”何モノ知らずのあつかましさ”が時に、いや、もっと、望みを叶え助ける道具だと、元商売人、叩き売りの私はよく知っている。
 フリムン徳さん、初めまして。
先日はご返事有難うございました。
早速本題に入りまして、 フリムンさんのアメリカ便りを配信していただけますか。
宜しくお願い致します。
楽しみにしております。
TVファン誌では万里子さんの旅とフリムンさんのエッセイが一番の楽しみでした。
息子さんの結婚のお話も面白かったですと、こんな内容のメールだった。
この時は嬉しさに、ホンマがついて”ホンマにうれしかった。
ホンマに嬉しかったは、大阪弁を愛する私には”本当に、うれしかった”より、強い表現のように思っている。
それ以来、何回も私のエッセイを掲載してもらっていた。    
このカリフォニアのばあさんブログはレシピの部門で常に上位である。
インターネットで調べてみると、1週間に7千人以上の人が常に覗いている。私は運がよかった、ウヤフジのお陰と思っている。
以前、私のホームページの訪問者は1週間に500人いたらいい方だった。
いかにカリフォニアのばあさんブログが有名か驚くばかりである。
 今年の6月にカリフォ二アのばあさんから下記の様なメールが入って、少し驚いた。
フリムン徳さん、お元気ですか?
随分前になりますけど、パラグアイに住む”いっこにこ”さんという方が コメントを残していました。
フリムン徳さんが造ったパラグアイの家の隣に”いっこにこさん”が35年前から住んでいるそうです。
徳さんの昔のパラグアイ友達の恵美ちゃんとは隣同士らしいです。
彼女は今とても幸せな(特に幸せな)奥さまです。
どうぞ、昔懐かしいパラグアイへいらしてください!」との内容でした。
とすごい偶然ですね。
てもとても不思議な気持ちです。
 カリフォニアのばあさん
私はすぐに一個、二個、三個と数える気持になりそうなりながら、パラグアイのいっこにこさんに私の家の電話番号を添えて、メールを入れた。
折り返し、昔のパラグアイの友達の恵美ちゃんの写真が送られてきた。
白いエプロン姿の恵美ちゃんの写真を見て昔のパラグアイを懐かしんだ。
昔のままのパラグアイの姿が天然色で思い出された。特に、あの赤土の土地、道が頭の中に描かれた。
雨の日に靴をいはいて歩くと靴底に赤土がへばりつき、靴底が高くなり、歩きにくく、靴を脱いで歩いたことを思い出した。
また、少しの間だったけど、日系2世の子供達の日本語の先生になり、日
語を教えていた。
子供達の顔や教室の黒板が思い出された。
どうして黒板が強く記憶にあったのだろうか。
絶対忘れる事が出来ないのは、移住地に着いてまもなく、学校の隣の収容所で3家族の新移民がひとつの大きなホールみたいな同じ部屋で、4つの衝立で仕切って、自分の土地が決められるまで一緒に暮らしている時であった。       ある日、大雨が降り、家の周りが水浸しになった。
外にある収容所の便所があふれ、汚水が流れ出した。
その汚水は、隣の家の井戸に流れ込んだ。
翌日は晴れた。
隣の人は何事もなかったように井戸水を汲んで飲んでいた。
送られてきた恵美ちゃんの写真を嫁はんに見せて、しばらくすると、パラグアイの恵美ちゃんから、電話が入った。
昔のパラグアイの思い出話に大きなパラグアイという花が咲いたみたいだった。
今度は40年前のパラグアイの友達恵美ちゃんとの縁をつないでくれた見ず知らずのいっこにこさんとの縁である。   
彼女のメールによると、こうである。
移住する前は東京立川市で、ガソリンスタンドをやっていました。
その時のスタッフ二人が喜界島出身だったのです。
(喜界島は私フリムン徳さんの故郷です)。
そんなこともあって、なんとなく喜界島に親近感を持っていました。
それは、直島君と、吉山君という青年(当時)でした。
とても、とても、よい青年で、家族のように一緒にご飯を食べ、同じお風呂に入ったものでした。
移住して何年目かに、里帰りした時、当時の従業員達が、歓迎会を開いてくれました。
その時の話題で、吉山君が「うちの田舎の近所の人がパラグアイに移住したけど、今は、アメリカにいて本を書いたりしていると、話しました。
 私はその時、へ~~~~、ソウなんだ~~~、なんて言っていましたけど、その話は徳さんのことだったのですねえ。
吉山君の家は畳屋さんだったと言っていました。
ネッ、なんだかとても不思議ではありませんか。
どう考えても不思議でたまりません。
これは、どうしても一度はお目にかからなければなりませんよね。
そうです、畳屋の吉山君は私の家の近所、直島君も私と同じ村の人間です。喜界島に縁がある鈴木さん、きっと遠い昔、鈴木さんの祖先が喜界島に何かの縁があったに違いない。
それにしても、レシピのブログで常時上位ランクされている”カリフォニアのばあさんブログ”の知名度が世界中を駆け巡っているのには驚きと、毎日、書き続けるカリフォニアのばあさんの忍耐には”継続の力”という言葉が目に見えるようである。 フリムン徳さん。^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^次は 18-- 「ほんまに、そんなこと、あんのかいな」 2874


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