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92--「サンフランシスコの夜昼裏表」①モントレーの山奥から心の叫けび

アメリカ人が一番行きたいアメリカの街はどこか?
ある新聞で統計を見たことがある。
それは異国情緒豊かな街サンフランシスコと書いてあった。
隣と壁が引っ付いた積み木のような小さな家が、坂道に沿って、丘の上にずらりと並ぶ、色とりどりの家並み。
摩天楼の高いビルの裾をグルグル巻きにして並んで、ケーブルカーに乗るのを待っている世界中から来た人間達。
芋の子を洗うようなマーケットストリートの沢山の人間達。
東洋人、ヨーロッパ人、アメリカ人、顔形の変わった、皮膚の色の違った世界中の人間達が、何かを求めて、うようよと歩いている街、サンフランシスコ。
 行列の出来ている有名なピザ屋で、英語を話すはずと思っている白人が、何語かわからん言葉で、ピザを注文して、店員が首をかしげて難儀している。
英語を話さない白人を見るのは、アメリカの山の中に住んでいる私には珍しい。
フランス、ノルウェー、オランダ、デンマークなど欧州の白人は英語も話さないと気づく時である。
このフリムン徳さん、白人は皆さん英語を話すと勘違いしていた。
ここでは誰もの顔が平等に見える。
金持ちでもない、貧乏人でもない、中間層の顔をしている。
背中や手にバッグを持った旅行スタイルの服装がそう感じさせるのか?
 私は10月16日と17日、2日間、グレイハンドバスでそのサンフランシスコへ「人間観察」に行ってきた。
コンピューターで切符を2週間前に予約すると、隣町パソロブレスからサンフランシスコまで、84ドルの往復切符が58ドルで買える。
私の住む山の砂漠と呼ばれるブラッドレーから車で北へ3時間のところだが、バスだと5、6時間以上もかかる。
いろんな町でお客さんを乗せたり、降ろしたりするからだ。
たまに運転手が道を間違えたり、コースを変更したりする時もあった。
私はこの頃、グレイハンドバスで、ロスへ何回も行っているから、グレイハンバスの事情がわかってきた。
 町に住んでいる人は田舎へ行って自然を楽しみたい。
山の中に住んでいる私は、町の人ごみの中へ行って、歩いてみたい。
私の場合は街の見物よりも人間観察に興味がある。
もっと欲をいえば、人と触れ会って、何か楽しい思い出を作りい気持ちが心の奥にあるようである。
でも知らん人に声をかけて、そう簡単に友達にはなれない。
触れ会いというのは何かよっぽどのチャンスがないとできないように思う。朝5時50分に隣町パソロブレスのターミナルで、大きなグレイハンドバスに乗った。
手擦りを持って、4階段を上り、座席に座った途端に、これから旅に出るんだという、「旅」という字が目の前に見えたような気がした。
窓寄りの座席に腰を下ろすと、長距離バスは大きいから、2階建てのバスに乗ったような気持ちになる。
目に見える景色が変わる。
立ってバスを待っていたコンクリートの道さえも、少し変わったようにも見える。
今まで見上げていた建物の軒下が、同じ高さに見える。
自分で車を運転して、見ている同じ景色が少し違って見える。
同じ景色なのに、少し高いバスの座席から見る見下ろしの景色が『旅』という気分になるのだろうか。
飛行機の旅は空港に着いた瞬間から旅の始まりを感じるが、バスの旅はバスの椅子に乗ったら旅の始まりを感じる。
 午前11頃、バスはサンフランシスコ・ダウンタウンのバスターミナルに着いた。
ミッッションストリートと1番街の交差した所で、マーケットストリートのすぐ近くである。
10年前、ほんの少しの間、リムジンで、バスガイドとして、日本からのお客さんをホテルに送り迎えして、マーケットストリートはよく通った。
10年で、これだけ沢山の新しい高いビルディングが建ったものかと、様変わりに驚いて、地図を頼りに3ブロック離れたマーケットストリートまで歩くことにした。
たった15分か20分歩くのがえらい、しんどい。
いつも車を乗っている自分が目の前をスイスイと走っていく車を見たら、歩いている自分が貧乏人のような気がして、気落ちする。
車を乗らない人は貧乏人のような気がする。
ほんまは貧乏人やのに、その貧乏人自身が自分を貧乏人やと思うことに、おかしくなる。
1ドル50セントを払って古いチンチン電車に乗った。
乗っている人間に白人が少ない。
どの人の顔も、肌色も違う。
電車は人種の混ぜご飯の釜みたいや。
私の住んでいるブラッドレーは白人だけの白いご飯の茶碗みたい。
まったく雰囲気が違う。
こんな混ぜご飯の中にいると、人種差別という言葉が要らなくなる。
白人に持っている劣等感も消えてくる。
でも混ぜご飯の中では言葉が通じんから、困るような気もした。
サンフランシスコは変な街だ、おもろい街の様だ。
⓶に続く


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