モントレーの山奥から心の叫び 35


35--   「思い出のアーケディア」 2576字

ロサンゼルスから東へ車でおよそ30分のところにアーケイデイアという町がある。
ロスアンジェルス郡の町である。
有名なサンタアニータ競馬場のある町でもある。
大きな高い楓の並木通りが多く、秋には深紅の紅葉が、焚き火のように通る人の心を赤く焦がしてくれる。
風情のあるいい町だった。
12年前にシアトルへ引っ越すまでの12年間、私はこのアーケデイアの町に住んでいた。
私、フリムン徳さんの生涯でも思い出の多い町である。
娘は小学校、中学校、高校まで、息子は小学校、中学校までこの町で学校に通った。
 年に1度、同じストリート(通り)の家族同士が家の前のストリートに繰り出してするストリートバーべキューも楽しかった。 
ロスアンジェルスの住宅地よりは敷地が広くゆったりとしていた。
私の家の敷地はおよそ500坪ぐらいあったと思う。
隣近所もだいたい同じ大きさの敷地。
ほとんどの隣近所が裏庭には大きなプールがあったが、うちにはなかった。ひょっとしたら埋めたのかもれないと、考えることもあった。
だから、芝を敷き詰めた裏庭はゴルフの打ちっぱなしができるほど広かった。
 息子は2軒隣のエディーの家のプールでよく泳がしてもらっていた。
息子が泳ぎを覚えたのも彼の家のプールだった。
この通りに東洋人として初めて移って来たのが私の家族で、一軒の黒人の医者の家族を除いて、周りは全部白人の家族だった。
人種差別を受けるんじゃないかと内心警戒していたが、それは取りこし苦労だった。
逆に、皆さんに親切にしてもらった。
引越しの初日には隣の人が、手伝いにも来てくれた。
特に親しく付き合ったのはリタイヤーしたエディーとオデッサの夫婦だった。
あまり英語のわからなかった嫁はんであったが、オデッサとはバラの花の趣味が合い、英語じゃなく花言葉でしゃべって、意思疎通は十分だったようだ。
二人は競走するみたいに花を増やしていた。日本からお客さんが来ると、彼らの家に案内し、これがアメリカ人の住居だと、家の内外を見せてもらった。
オデッサはドイツ系の優しい白人婦人で、家の中はいつも掃除が行き届いていて、家具もじゅうたんもカーテンも新品のようで気持ちよかった。
無駄な飾りはなく、質素で美をかもし出す部屋の飾り付けが上手だった。
私の本職だった床の間造りの時、お客さんによく進めた床の間の飾りつけ、掛け軸、壷、花の三つだけのシンプルと似ている。
なぜだろうか。彼女は、ルネッサンス風の椅子の張かえも自分で生地を買ってきてやる。その出来映えはプロ並みであった。
 エディーは、見上げるほど背が高くて、優しい人だった。
彼の背の高いのには理由がある。
元プロのバスケットの選手だったのだ。
今、プロのスケットで活躍しているコービー選手にも何度かコーチしたことがあると言っていた。
このコービー選手の名前をいきさつを聞いた。
思わず、声を出して笑ってしまった。
コービー選手の父親が神戸肉が大好きで、息子の名前を(コービー)と名付けたそうである。
アメリカ人は神戸を(コービ)と発音する。
リタイヤーした彼の趣味は毎日のゴルフで、ハンディもすごかった。
絶頂の時はハンディ2だったという。
バスケットで鍛えた運動神経の固まりみたいな長身の身体でクラブを振る姿は、写真に撮りたいぐらいに鮮やかだ。
私を生まれて初めてゴルフに連れていったのも彼だ。
 私、フリムン徳さん応援団の友田英助家族が日本からうちへ来た時もエディーの家へ連れて行った。
彼の目の前でゴルフスイングをした英助にベリー・グッドとか言っていたが、英助のスコアは聞かなかった。
皮肉なことに、前の日に、英助にはアメリカンネームでエディーと言う名前を付けたばかりであった。
というのは、英助からおもろい提案があった。
会社の彼の部下へのアメリカ土産に彼らのアメリカンネームをつけて持っていきたいと言う。
私の娘まき子が、皆さんのアメリカンネームを考えてくれた。
英助には英助のエを始めにつけて エディー 友田とつけた。
今は彼は、私フリムン徳さんの応援団だから、自分ではフリムン・エディーと言っている。
去年10数年振りに嫁はんと二人で、元住んでいたアーケイディアの我が家の辺りを覗きに行った。
ついでに、エディーとオデッサの家に寄ってみた。
二人は涙を流し、顔を濡らして、私達二人を抱きしめて、再会を喜んでくれた。
二人とも容姿は10数年前と変わってなかったが、歳を聞くとやはり10数年歳をとっていた。
オデッサが91歳、エディーが88歳とのこと。
エディーは目が悪く車の運転が出来ない。
91歳のオデッサが運転をして買い物やらをしていると聞いて、嬉しいやら、涙ぐましいやら、心配やら複雑な気持ちになった。
エディーは目の前の人の輪郭がわかるくらいしか見えないらしい。
でも、家の中の絨毯の上で、黄色いゴルフボールでパットの稽古をしていた。
この目の不自由なエディー、黄色いタマは見えるので、まだ週に2回はゴルフ場でゴルフをしていると言う。
好きなことは心の目で見えるのだろう。
エディー達に困ったことが起きているという。
ほとんど白人の家族だった隣近所が全部台湾系チャイネィーズの家族に変わったとのこと。
アーケデイアの住民の80%以上はチャイネィーズになっているらしい。
アーケディアの宅地は一区画が広いから、少々値が張る。
でも、チャイネィーズは現金で買い上げて、少し古いと、その家を取り壊して、 御殿みたいな家を建てる。
どうして、チャイネィーズは金持ちが多いのだろう。
これは今のアメリカ人の驚きのひとつだという。
 元の私の家を買った中国人の話を聞いて驚いた。
アメリカでは2台の車庫が普通で、3台は少ない。
でもこの中国人はなんと5台の車庫に建築中で、朝7時から夜7時まで、工事の騒音がひどい。
エディーは市役所の建築課へ相談に行った。
建築課で働いている6人の職員の内5人が中国系アメリカ人だったとエディーは嘆いていた。
台湾系の中国人はいい学校の近くに集まってくるらしい。
アーケイディア・ハイスクールは台湾人にとってアメリカで一番の高等学校だそうだ。
 エディーは嘆く、中国人は先に挨拶をしても挨拶を返してくれる人が少ないそうだ。
親しい徳さん夫婦と同じような顔、同じような皮膚の色をしているのに徳さん夫婦とは違う様だと言う。
どこかへ引っ越したいが、もう歳だからねえと、元気のない声で言った。
白人が新しい町を作り、そこへ黒人が入り、日本人が入り、メキシカンが入り、東洋人が入り込む。
白人はまた、郊外へ引っ越して新しい町を作る、これがアメリカ白人の歴史だとエディーは言う。
 それから半年ほどして、娘のまきこから電話が入った。
目の不自由なエディーは白い杖を付いて一人、近くのレストランへ行く途中車に轢かれそうになり、息絶え絶えに、レストランへたどり着くなり、倒れこんで死んだという。
胸にエディーとの思い出がこみ上げてきた。 
エディーよ、さようなら、エディーよ、さようなら。

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