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モントレーの山奥から心の叫び 38

私には、小学生、中学生の時に喜界島で机を並べた同級生がいる。この同級生には肉親以上の何かがある。
喜界島を出た後、大阪、南米パラグアイ、アメリカと移り住んだ私は45年も会ってない同級生が多い。
その中、なか会えない同級生が現在、私の支えになっている                                   
      
      「助け合う喜界島」
鹿児島から南へ小さな飛行機で1時間半のところに喜界島がある。
卵の形をした小さな緑の島は太平洋の荒波に揉まれて、木の葉のように浮かんでいる。
主な産業は大島紬とサトウキビ。
最近は黒糖焼酎、白胡麻が有名である。
白胡麻の生産は日本一という。
人口約9000人、周囲約48キロメートル、この小さな島を毎年台風が大雨、大波と大風を伴って何回も襲い、作物に被害をもたらす。
台風の時を除けば、奇麗に澄みきって透明で、手にとるように底が見える珊瑚の海、そして、親切で素朴な島チュ(島人)の厚い人情に触れると日頃のストレスは飛行機が飛んでいくように早く、アーッと飛んでいく。
 この島には9の小学校、3つの中学校と1つの高校がある。
島の学校を卒業すると、ほとんどの卒業生が都会へ仕事を求めていく。
島に産業がないからだ。
島を離れた人達は各地域で島人の集まりをつくっている。
その中に各学校の同級会がある。
会いたくなれば、何かがあれば、同級会と称してすぐに集まる。
会えば、必ず、ハギー(オー)、マリマリヤー(久しぶりだねえ)、ハナサヤー(懐かしいネエ)、ギンキナ(元気か)と島ユミタ〈島の方言〉で声を掛け合い、楽しい島ユミタの会話や情報交換が始まる。
そして酒が回ると島唄、島踊りが始まる。
どこの誰それが病気だというとすぐにみんなで見舞いに行く。
家族よりも仲良しの強い絆で結ばれている。
 幼い頃机を並べた同級生の団結心は肉親以上のものに思える。
落語に出てくる小さな長屋の雰囲気みたいな感じもする。
それに昔は貧乏だったから、村全体が助け合い、他人の子供でも悪い事をしたら、叱り、注意をしてあげ、よい事をしたら、誉めた。
村全体が1つの家族みたいだったから、相手の悪いところも良いところも知っていて、それを認め合って、付き合うから都会でも強い絆で結ばれているように思える。
東京や大阪の喜界島出身の人口は島の人口より多いと言う。    
 東京、大阪の島の同級生の会いたがり、励まし会い、助け合い、団結心は何によって起こるのだろうか。
台風のような気がする。
ひどい時は1年分の畑の作物を取り上げ、家の屋根を飛ばし、道を崩し、島に大きな被害をもたらす。
台風の被害の復興は個人では到底無理だ。
どうしても村全体、島全体の人が助け合ってやらねば出来ない。
台風の時には大地震や大火事の時には皆が助け合って復興に頑張っていくみたいな状況が昔から今まで数え切れないほど起こってきた。
そこには助け合い、励まし会い、哀れみあい、友情の心が生まれる。
長い歴史の中で、そこに住む人間の心にも影響を与えているように思える。

  『島ユミタ〈島の方言〉』
 本土と全く違う島ユミタ、島唄、島踊り島料理が強い絆の元とも思える。鹿児島弁よりも沖縄弁に近い。
ビンダレー〈洗面器〉のように古い落語に出てくる言葉や、昔中国から沖縄へ持ちこまれたファンスー(薩摩芋)という言葉も島ユミタだ。
『フリムン徳さんの波瀾万丈記』のフリムンも島ユミタだ。
このフリムンという言葉はアホ、バカよりも古い日本語だそうだ。
東京、大阪、本土の人が聞いたら全くわからないと言う。
それは外国語に違いないと思うかもしれない。
でも喜界島の生まれ育った私達にはこの島ユミタは古里の懐かしい山や川みたいに、安らぎを与えてくれ、親近感を与えてくれる。                                     
 この島ユミタには幼い頃の思い出がいっぱい詰っている。
竜宮城から持ってきた玉手箱みたいだ。
本土でこの島ユミタで話し出すと、懐かしい幼い頃の島や村や、海岸や山が一瞬にして出てくる。
畑も道も萱葺きの学校も出てくる。
お爺さんもお婆さんもファンスーも味噌も島唄も島踊りも何でも出てくる。島ユミタは島の人にしか通じない。
この島ユミタ、島唄、島踊り、島料理が島を離れた島チュを引き付け、団結させているようだ。
この島ユミタを東京や大阪の電車の中で聞いたら、私は必ず、傍へ寄っていくこと、間違いなしである。
 でもこの島ユミタが消えつつある。
テレビの影響だと思う。
えらいこっちゃ、どないしよう、難儀やのう。
私はどうしてもこの島ユミタを後世に残したい。
このフリムン徳さんが禿かけた頭を掻き掻き、考えた妙案がいくつかある。文字に書けない言葉は消滅するから、苦労して島ユミたの文字を作ってみた。
すると、日本語の50音に23文字加えて73文字で島ユミタが文字に書ける。
この島ユミタの文字を村の小学校で生徒に教えたら今からでも遅くはないと思う。
それから、家では島ユミタを使い、学校では標準語を使う方法もある。
アメリカに住むラテン系の人たちは英語もスペイン語も使い分ける人が多い。
喜界島の人も島ユミタ、日本語と使い分けて欲しい。
生まれて育った島の言葉〈島ユミタ〉ぜひ残して欲しいねん。
私にとってはシマユミタを忘れる時は死ぬ時でんねん。

「島ユミタ」
島ユミタは
私の 一番の親友だ
私の 親戚だ
すべての 匂いが
すべての 思い出が
沢山 詰っている
島の畑、海岸
石垣の間の狭い道
生れ育った家、屋敷
じいさん、ばあさんの思い出
すべて 島ユミタで
私に 語りかけてくる
島ユミタは
薩摩芋の味がする
豚味噌の味がする
黒砂糖の味がする
クルブィラー(すずめ鯛)の味がする
島ユミタは 島の宝だ
もうろくして
忘れてなるかい
島ユミタを忘れる時は
死ぬ時よ

  『アメリカから喜界島を有名にしたい』  
こうして私に生まれ故郷喜界島の同級生愛をプレゼントしてくれた日本におる、島におる同級生への恩返しに、私に出来ることは『アメリカから喜界島を有名にする』ことだと思っている。
45年も会ってない島の同級生、日本全国に散らばっている懐かしい同級生に生きているうちにもう一度会いたい。   10-2008 フリムン徳さん

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