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短編小説#33

 大きく右にカーブを切った荒川の果てにモネの【日の出】を思わせる橙の夕日が黒い雲間から不規則な輪郭を覗かせている。彼は車窓を流れる見慣れた風景を眺めながら、

(どうしたものか…)女房にどう知らせたら良いのか思案していた。

 …

 建設会社で営業課長を務める壬生七郎は現在五十五歳の既婚者で子は無い。出世競争に明け暮れた挙げ句、それに敗れた七郎はかつて持っていた仕事への熱情を忘れ去り、毎日書類の山を相手に黙々と判子を押すだけの無気力な日々を送っていた。

 今では家庭(この場合、女房(亜希子)といって良いだろう。)を顧みることもなく働いた七郎は亜希子に見放されていて家庭内別居の状態にあった。

 …

 このところ腰の辺りの重だるさがどうにもいけなくなって、ある日、七郎は休暇を取って医師の診察を受けた。医師から軽いすい炎だと告げられた七郎は、実際にはすい臓がんにかかっていると悟り、余命いくばくもないと考えた。不意に訪れた死への不安などから、これまでの自分の人生の意味を見失った七郎は、会社を無断欠勤し、これまで貯めた金をおろして夜の街をさまよう。

 そこで、一年程前に彼の勤める会社を辞めて金融機関の営業職に転職していたかつての部下の桜庭奈保子と偶然に行き合う。

 部下であった頃にも奈保子は理知的な美しい容貌を持ち合わせていたが、無口で沈んだところのある、あまり血色もよくない娘であって、気に掛けることもなかった。今では持ち前の理知性と併せて大人の美しさを持ち合わせ始めた彼女を気に入った彼は、彼女の「いいわ」の一言で亜希子と別居して彼女を引き取り、鎌倉に洋館を借りて二人暮らしを始めた。

(友達のように暮らそう…)というのが最初の申し合わせだったので、二人が友達以上の関係になったのは、その明くる年、奈保子が取って二十九歳の年の秋だった。極めて自然に、どちらがどちらを誘惑するのでもなく、ほとんどこれという言葉ひとつも交わさずに暗黙の裡(うち)にそういう結果になった。

 …

 非常に躾の厳しい、門地の高い家に育って、奈保子は探求心や洒脱な会話や文学や、そういう官能の代りになるものと一切無縁であったので、ゆくゆくはただ素直にきまじめに、官能の海に漂うように宿命づけられていた、と云ったほうが良かった。そうは云ったところで、浪費家で飽きっぽい彼女の欠点を七郎が正そうとすると、彼女は泣いたりすねたりして、結局のところは最後には彼のほうが謝ることになるのである。

 …

 そんなある日、七郎が早く家に帰ってみると、玄関の前で奈保子が若い男と立ち話をしているのにぶつかった。嫉妬の情にかられた彼は彼女に問いただすが、

「あれ?あれはあたしのお客さんの息子さんよ、神崎さんていう…ドラ息子。今度、株買ってくれるって言いにきたのよ」と否定される。

 しかし、彼女が他にも何人もの男とねんごろなつきあいをしていることに気付き、本当に怒った彼はその男達との一切の付き合いを禁じ、彼女を外出させないようにした。

 …

 いったん奈保子はおとなしくなったものの、まだ神崎という男と密会していることが分かり、七郎はとうとう彼女を追い出してしまった。

 追い出してしまったものの、彼は彼女が恋しくて仕方がなくなる。彼の元を去った彼女を彼は心配でいてもたってもいられなくなったので、手を尽くして探してみると、仕事の上で知り合ったある資産家の家に泊まり、豪華な服装をして遊び歩いていることを知る。これには彼もあきれ果ててしまった。

 …

 奈保子のことを忘れようとしている七郎のところへ、ある日ふらっと彼女が現れた。

 荷物がまだ全部彼の家にあるので、それを取りに来たのだという。

 彼女はそんなふうにして、ちょいちょい家にやってくるようになった。品物を取りに寄るというのが口実だが、なんとなくぐずぐずいる。日が経つにつれて、彼女はますます美しくなってくる。あれほど欺かれていながらも、彼は彼女の掴み処のない魅力には抵抗が出来ない。彼女も自身の魅力が彼に与える力を充分に知っていて、次第に彼を虜にしてゆく。

 ついに七郎は奈保子に全面降伏をした。二人は元のように暮らすようになる。もう彼は彼女のすることに何も反対をしない。彼は、限りなく美しさがましてゆく彼女の官能の海に漂いながら生きていくことを決心した。

 今まで決して未来を誓うこともなく、自身の好みを露わに言うこともなかった壬生が、この日初めてそれを言って奈保子を喜ばせた。ついに、彼は未来を誓い、自身の好みを言ったのである。その日、奈保子は幸いにも彼の好みのとおりの姿だった。

「今日はストッキング穿いているわ」

奈保子の言葉に壬生は深く俯いた。これは壬生にとっても奈保子にとっても甚だ幸福な口に尽くせぬ瞬間だった。

 その頃には壬生のがんは手の施しようもない程に悪化して、取って五十六歳になろうとする年に彼は死んだ。奈保子は三十歳だった。

-おわり-

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