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短編小説#37

「旅に出よう」

と、壬生七郎が桜庭奈保子を誘った。奈保子はすぐに同意した。奈保子は逃げ出したいような、また、追われているような心持ちで毎日を送っていたので、彼の誘いにやすやすと乗ったのである。奈保子が何から逃げ出したく思い、何に追われているのか、といえば、それは甚だ(はなはだ)曖昧で漠然としていた。奈保子は自身の後ろに張り付いている奈保子自身の背中に追いかけられているのかもしれなかったし、あるいは、自身を包み込んでいる肌の袋から逃げ出したかったのかもしれない。ともかく、はっきりと取り出して指し示すことのできるものは何もなかった。それだけに一層、奈保子は苛立っていたのだ。

 壬生と奈保子は小さい鞄を持ってこの街を離れようとしていた。

「どこへ行こうか…?」

「どこでもいい。そうだな、海の見える土地に行くか…?」と壬生が言った。

 ローカル線の汚れた客車は魚の匂いがした。魚の詰まった箱を持った、魚の匂いの染み込んだ男や女が、あちこちに座って、声高に元気よく話し合っていた。

「海の電車だな。だが、この生臭い匂いは、今、ちょっと身体にこたえる」と壬生が言った。彼の指先は洋服の胸のあたりをさまよって、やがて、心臓の上あたりにできている小さな穴をもてあそびはじめた。

「ねえ、穴が大きくなるわよ」と、奈保子が言うと壬生の指の動きが止まった。

「それにしても、背広は一着しかないの?焦げた穴が目ざわりよ」

「いや、わざと焼穴のある背広を着ているんだ」

「どうして?」

「まあ…いいんだ」

「まあ、女のひとのことでしょうけど…」

「どうとでも思ってくれたってかまわないが…」そのことを忘れないために、そのことから徐々に回復するために、わざと焼穴のある背広を着ている、と壬生が言う。彼は、その女の裏切りの内容については語らなかった。ただ、その焼穴についての説明だけはしてくれた。

 女に彼は詰問した。女は答えない。黙って彼を見据えた。苛立って、彼は煙草に火を点けた。詰問を繰り返した。女は指を伸ばして彼の煙草を奪い取り、眼を据え、唇を噛み締めたまま煙草の火を左胸の上に押し当てた。生地の焼けるきな臭い匂いが立ち上り、彼の背広に焼穴ができた。

「女の人に裏切られたってことは、あなたは自由になった、ってことじゃないの…?」奈保子がそう言うと、壬生は奈保子の顔に視線を走らせて、

「キミにはわからないんだ」と壬生は答え、指をそのあたりにさまよわせ、ゆっくりまさぐりながら、

「ゆっくり、少しずつ回復してゆくより仕方がない」

 それで、壬生は奈保子を誘って旅に出たわけなのだ。焼穴のあたりをさまよっている壬生の指先を見ていると、奈保子は一層苛立たしい心持ちになってくる。その実、壬生の本心はこうして奈保子と膝が触れ合う距離で車窓を流れてゆく海沿いの街を眺めていることに無邪気に満たされているのであった。こうして壬生と奈保子を乗せた魚の匂いのする列車は海沿いの線路を南へと走った。

 南の端の岬に着いた。

 海はだだっぴろく、白茶けた色で広がっていた。薄日が射しているのだが、空も白茶けた色をしていて、空と海の境は曖昧である。

 その海に沿って、埃っぽい道が投げ出された帯のように続いていて、その尽きるところにねずみ色の灯台があった。風景全体が色褪せ、薄っすらと埃に覆われているようだった。

 壬生と奈保子は、部屋の椅子に向かい合って坐り、海を眺めていた。黒い荒々しい岩にぶつかる波が、白いしぶきをはね上げていた。

「いい景色だな。とりとめがなくて、押しつけがましくないところがいい。海岸を散歩しよう」と、壬生は言うと、立ち上がった。

 壬生と奈保子は海の傍らの宿屋に鞄を置いて街に出た。

 ふたりは海沿いの喫茶店にはいった。壬生は席につくなり、「オレ、氷あずき」注文をとろうとするウエイトレスに先んじて声をかけた。奈保子にはまったく構わずに。「キミはこれから何して稼ぐ?」壬生は奈保子に訊きながら、一週間前のことを思い出していた。

 壬生の部屋に奈保子が訪れてきた。

「別れたの」いつものように、まるで二年間のブランクがなかったかのようにごく自然に、壬生は彼女を抱きよせ、色濃く漂いはじめた彼女の匂いのない、その匂いを手がかりにして、彼女の中に潜りこもうとした。

「ちょっと待って…」

「どうした…?」壬生は不満を示した。不思議なものを見る眼と疑わしげな眼とで眺める。

「前は会っているだけで、いっぱいになっちゃって他のことは何も考えられなかったの。今はそうじゃないの…」

「そうじゃないとすれば、余分な知恵みたいな…世間体みたいなものがくっついてしまったんだよ。でも仕方ないさ、キミだってもう三十を越えたんだしね…」

「ううん…、わたしはそうは思わないわ。前よりもっと愛してしまったんだと思うわ。いつも、あなたと一緒にいて、あなたの…なんていうのかな…、奴隷になりたい」

「…古い歌にそんなのがあったな…ハハハ」

「…笑いごとじゃないわ」今度は奈保子が不満を示した。

「茶化してすまん。…奴隷になるということは、じつは相手を縛ることだよ」

「そうじゃないわ。うまくいえないけど、それは違うわ…」

 壬生には、奈保子の不満の大きな部分がわかっている。それは、彼に妻があるということである。奈保子と会い、奈保子と別れてから、壬生が妻のいる家に帰ってゆくということ、そのことに奈保子は耐えられない。壬生の皮膚に別の女の匂いがつくかもしれぬ、というようなことが耐えられないのである。

「縛ってくれていいのよ。なのに、わたしと一緒に暮らしたいとおもわないの?」奈保子の声が聞こえてくる。

 壬生の中に疑い深い心が首をもたげる。どんな女でも一緒に暮らして時が経てば、みな同じものになってしまう。胸が膨らみ、相手に寄り添ってゆこうとするような感情は、みな短い間の幻影にすぎない。そんな幻影が最初にあればあるほど、あとでお互いに傷つけ合い、束縛し合う量も大きくなるものだ…そういう疑いが彼の心の中で次第に広がってゆく。厄介でわずらわしいことに精力を使ってまで、妻と別れた壬生が奈保子と一緒に暮らすことに意味があるだろうか。彼女を愛おしく想い、彼女に寄り添ってゆこうとする壬生の気持ちを、その疑い深さが次第に押しのけてしまう。

「おもわない」壬生はきっぱり答えた。

「でも、キミを好きだ。これははっきりしている。キミを強く愛してしまったからといって、そのまま放り出すわけにいかない」

「…」奈保子が気のない様子で聞いている。しかし、壬生が話し終えると、すぐに奈保子がこう言う。

「だから、何なの?あなたの言ってることがわからないわ」

「だってそうだったろう…そもそも、お互いに干渉しないのがオレたちの関係だしな…」―なんと都合のいいことか、壬生は自身の掌が汗ばんているのを感じながら、心の中で呟いた。

「ああ、もう…いつでもそれ、あなたは卑怯よ」

男の前で装う必要のなくなった女の生の声が響く。その声には憎しみがこもっている。その響きは、思わず壬生を身構えさせる。

「そうか、そう思っていればいい」沈黙が続く。不意に奈保子は玄関に向かって歩き始めた。細い踵(かかと)の靴を手にして戻ってきた奈保子は庭におりると佇んだ。地面が土に露わになって湿っていた。パンティーストッキングの底を透して冷たい感触が皮膚に滲みこんできた。

「ああ、もう…」いよいよ辛抱が尽きたのか横座りになって、大きすぎなく、それでいて、はっきりとした美しい二重をたたえた瞳に涙を溜めた。横座りになっている奈保子の腿(もも)と脛(すね)にナイロン生地を透して湿気がまとわりつく。

「あなたは卑怯よ」もう一度、奈保子は呟く。奈保子は立ち上がると、靴を持った両手を大きくぶらぶらと揺り動かし、足裏を地面に打ちつけながら部屋に上がってきた。

「旅に出よう」不意にそんな言葉が壬生の口をついて出た。

「それなら、ウチで働かないか…?」

「いいかもね、でも…」

「秘書…なんてのは大げさだな、うちみたい会社で。オレの身のまわりのことなんかを手伝ってくれりゃいい」壬生は従業員十名足らずの財務関係のコンサルティング会社を営んでいた。

「…ありがたいけど、生活のためのお金なら自分で稼ぐわ」

「そうか…帰るか?」

「ええ」

そして、壬生と奈保子は再び列車に乗り、東へ向かった。

―終―

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