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【連載小説#41】(五回目)

(「壬生は税理士資格を失って事務所の看板を下ろした。自身の名義のマンションを売っていくばくかの金を手に入れ、小さな会社を立ち上げて、【財務コンサルタント】の肩書きの入った名刺を携えて税理士時代の顧客をターゲットに営業に廻った。かつての恩を感じてか、または脛の傷に負い目を感じてか、壬生に仕事を依頼する者が少なからずあった。壬生ひとりが食べていけるだけの収入は確保した。)

 スキー場で行われた自動車会社のイベント会場で地元のアルバイトスタッフとして雇われた奈保子は東京の広告代理店の企画担当の職員として仕事にあたっていた神崎武美とそこで知り合った。都会の洗練された武美に魅了された奈保子はそのとき初めて男を知った。武美は東京の大手家電メーカーP社に奈保子の就職を取り計らった。別居状態にあった妻との離婚が成って二年あまりが経ったとして、奈保子は武美から結婚を求められた。勤め始めて四年が過ぎて仕事の面白さがわかり始めた奈保子は戸惑ったが武美の強引な求めに抗うほどの意思を持ち得なかった。ふたりは結婚の承諾を両親に求めるべく奈保子の長野の実家に向かった。

 「悪くないじゃない」久美子が台所に立った奈保子に言った。

「うん…ありがとう、バツイチってところがちょっとね…」

「子どもがあるわけじゃないし、あんたのこと愛してくれているようだし、心配ないんじゃない…」離婚経験があるとはいえ、慰謝料や養育費といった負債があるわけでもなく、なにより、武美の男ぶりの良さと育ちの良さを思わせる所作と話し方とに久美子は承認を与えた。

「おとうさんはどうかな…あんまり良く思っていないみたい…」

「そうね…まあ、おとうさんは古いものの考え方をするから…でも、わたしから、ちゃんと話しておくから大丈夫よ。娘の幸せを願わない親はいないから…」久美子はひたすら機嫌が良かった。

―どうも信頼ならん、帰り際の父親の信男が呟いた一言が奈保子の耳から離れなかった。

 ふたりが一緒になったそのころ、日本の経済成長が止んだ。あまりに突然に…実体経済以上に景気が膨らんでいたことにどれだけの日本人が気づいていたのだろうか。その結果、終身雇用、年功序列といった日本固有の雇用関係が揺らぎ始めた。企業の広告にかける予算が縮小する影響から武美の勤め先もリストラを始めた。武美の給与の一部がカットされたことから、勤めをやめて、専業主婦になろうとしていた奈保子は武美の求めに応じて勤めを続けることにした。しかし、家事を分担するといった当初の約束は反故にされた。毎晩遅くに帰宅する武美にそれを問いただすとのらりくらりとかわされた。必要以上にことを荒立てるほどのエネルギーを奈保子は持ち合わせていなかった。

 「できたみたい…」

「ん…、なにが?」

「あかちゃん…」

「…どうしてわかったの?」

「ここのところずっと気持ちが悪かったから、ひょっとしたらとおもって産婦人科で診てもらってたの」

「…」

「どうしたの…?うれしくないの…?」

「いや、そういうわけじゃないけど…育てられるかなあ…」

「大丈夫よ、はたらけるまで、はたらくから…わたしも」

「うん…」

「大丈夫よ、うん…」奈保子の笑みは武美の意外な反応に深い戸惑いを感じないほどに楽天的だった。

 ん…?洗濯物の中から落ちた、縒れた紙切れを奈保子は取り上げた。『×××いつ会えるの?×××』ところどころインクが滲んで落ちてはいたが、そこに書かれた女の文字は明らかに武美にあてたメッセージだった。

―なによ、これ…、握りつぶした紙切れを思い返したように奈保子は広げた。

 奈保子の眉間にシワが寄った。

 「武美さん…」翌朝の食事の支度をしている奈保子の横に立った武美に尋ねた。

「なに…?」

「女のひとがいるんじゃない?」

「…どうしたの?急に…」

「見たの…女のひとからのメモを…」

「メモ…?キミ、ずいぶんと趣味が悪いね」こともなげに表情も変えずに武美が言った。

「ねえ、どうなの…?いるの?」

「いるよ」武美が奈保子をまっすぐ見た。

「わたしが妊娠しているというのに…あなたってひとは…」

「キミのおなかの子だってボクの子だかどうだか…?」武美はそう言いながら居間に消えていった。

「…」奈保子は握っていた包丁を居間に向かって投げつけた。

―つづく―

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