短編小説#28
【プロローグ】
奈保子は壬生が自身に好意を持っていることを感じていたし、そう想われることに悪い気はしなかった。
しかし、その愛くるしい容姿ゆえに、生まれてこのかた、恋愛に対する態度は常に受け身で、自身の距離感を崩すことなく維持してきた。
初めての壬生からの食事の誘いに、「主人にきいたら、あまり…」そう言って断った。
すでに奈保子夫妻の仲は破綻しかけていたが、主人という言葉に自身、空々しさを覚えながらも表情にはそれを微塵も出すこともなく…
一
美術館に近い待ち合わせ場所で壬生が手を上げていた。フロントグラスの向こうに表示灯の【迎車】の文字があった。
上京することは前の日に伝えておいた。
「東京駅に六時だったら、少し離れているけど×××美術館の前にしよう。わかりやすいし車も停めやすいからそうしよう」そう言う壬生のしわがれたような声に過ぎ去った時間の長さを思った。
「個人タクシーなんだ…じゃあ、社長だね」奈保子は【壬生タクシー】と書かれたドアを見ながら言った。
「まあな」壬生はおどけるようにして軽く胸を叩いた。
「ところでどうする?ドライブでもするか、それともどこかでメシにするか」
「おなかすいたわ」
「わかった。じゃ、乗って」壬生が助手席のドアを開いた。
奈保子が車に乗り込むと、表示灯を【賃走】に切り替えた。
「どこに行こうか」
「うーん、外で食べるのも疲れちゃった。迷惑でなければ壬生さんちでどう…」
「…そうだな。車じゃ酒も飲めないしな。そうしようか」壬生はゆっくりと車を走り出させた。
…
「不動産屋さんの手違いで住めるようになるのに二、三日かかりそうなの。だから」
「だったら、ここ泊まったらいい」壬生は奈保子の言葉を遮った。
友人が資産家の親から相続した空き家となった貸家を壬生は安く借り上げていた。
「それじゃ、そうさせてもらいます」
「魚彦くんは明日だったな」
「その予定だったけど、住めるようになってから来るように言っておく」
「大丈夫かい」
「しばらく、姉さんのところに泊まらせるから」奈保子は携帯電話をバッグから取り出しながら言った。
こうして奈保子の東京での新しい生活は壬生の住まいから再スタートした。
…
「ずいぶん前のことのように感じるな」シミの浮かんだ黄ばんだ天井を見つめながら壬生は煙草の煙りを吹き上げた。
「えっ?」微睡んだ奈保子が事態をつかみきれないままに声を上げた。
「あの頃のことさ」
「あの頃…」
「…想うほうと想われるほうとの違いだな」壬生が呟いた。
「なに?良く聞こえない」奈保子は耳の後ろに手を当てると壬生の胸に顔を寄せた。
二
十六年前のことだった。
取引先の不動産屋の男に連れていかれた会員制のクラブは当時、流行のデートクラブだった。客は酒を飲みながらカウンター越しに店の女性と談笑してお気に入りの女性を捜すという趣向の店だった。飲み放題三千円から始まって外に連れ出して七千円…それからプレイすれば二時間で二万円プラスホテル代というシステムだった。
「社長、ここで心ゆくまで面接してください」取引先の男はカウンターの壬生から離れると十分もたたないうちに女性と出ていった。
「よろしく」カウンター席の向こうに立ったのは奈保子だった。あっ、奈保子の表現が一瞬、固まったように映った。
「社長さん。お世話になります」奈保子は射るような視線を向けた。
(こうなったら覚悟を決めるか…)
壬生はウイスキーを煽った。
…
「キミはなぜこんなことをしているんだ」ベッドに腰掛けた壬生は背を向けたまま言った。
「どうして男のひとってそんなこと聞くの」
「…やめちまえこんなこと」
「お金のためだから」
「キミのようにきれいな女のひとならこんなことしなくても他にいっぱい、いい職が転がっているよ」
「ふふ」真顔の壬生を見ながら奈保子が薄く笑った。
「なにがおかしい」
「おかしい」
「そんなにおかしいかな」
「違うの。だってそんなにはっきり言うひと初めてなんだもの。おとうさんみたい」
「ちゃかさないでくれ」
「でもね、女がお金を稼ぐのって、壬生さんが考えているよりずっと厳しいのよ。保険の外交だけじゃ間に合わないの。でもあなたって素敵なひとね。今まで『やめろ』なんて真剣な顔して言ってくれた人なんかいなかったわ。でもね、こうなっちゃたんだから、しかたないんじゃない。シャワーやってくる」奈保子はあっけらかんとしている。
(なんて図太いんだ…)
「お客さんかっこよすぎよ」そう言って振り返ると、奈保子は風呂場に向かって行った。
(やっぱり奈保子のペースに乗せられているんじゃないか…)
シャワーの音に混じって鼻歌が聞こえてくる。
(ほんとうにいいのか…)
「ねえ、壬生さん。なに考えているの?」奈保子の声に壬生は我に帰った。
「あ、いやなにも」
「ふーん…ねっ、しようよ」奈保子は壬生の首を抱くようにして自身の唇を重ねると二人はそのままベッドに倒れ込んだ。やがて奈保子の部屋着の前が解かれる音が小さく響いた。
三
勤めていた銀行の支店長から役員への引かれていたはずのレールから外れたのは壬生が五十になろうとする頃のことだった。派閥の長が自身のスキャンダルから失脚したことから、派閥の連中は芋づる式に社外に出された。その中に壬生はいた。
融資先の町工場に出向した壬生は後継者のいないその工場の老社長に乞われて妻の激しい反対を押し切って社長を引き受けた。
会社の持つ特殊な精密技術に将来性に魅力を覚えたのが理由だった。特に外資系企業の需要に応えたことで業績は急速に拡大した。
…
IT不況に煽られて町場の零細企業の経営が揺らぎ始めた。
壬生の拡大路線を支持した出身銀行は追加融資の条件に不動産担保の差し入れを求めた。壬生は資産家の妻の実家を頼ったが断られた。銀行は融資の蛇口を絞った。会社の資金繰りは悪化した。昼夜かまわず自宅にまで訪れる債権者に妻は次第に心を病んでいった。ついには、会社共々壬生自身も破産した。
抵当に入っていた自宅を失い、妻は実家に帰った。
「離婚してください」妻の申し入れに壬生は断る理由が見つからなかった。
…
中学生になった魚彦に以前ほど手がかからなくなった奈保子は少しでも余計に家計の足しにしたくて、それまでの宅配弁当の仕事をやめて、時間の拘束が緩むことと、成果によってはそれまで以上の報酬が見込める保険の外交をはじめた。
夫婦の不仲は決定的になった。夫の武美は暴君のような振る舞いをしながらも嫉妬疑い深い人間でもあった。仕事から帰った奈保子に、「ずいぶん遅いじゃないか」武美は酒に濁った目を向けた。
「キミがだれと逢おうとかまわないが、この先いろいろとキミにとって不利になりゃしないか」
「わたしにも相手を選ぶ権利があるのを忘れないでよ!」武美の物言いに奈保子は逆上した。
「やっぱり男がいるんだな!」武美は手元のグラスを投げつけた。そのグラスが奈保子の足元で割れた。
(もう無理だわ…)
奈保子は家を出た。
四
踵が鉄製の階段を叩く音が響く。
扉の前に立った奈保子の顔をが強張る。部屋の中には明かりが点っている。
(いる…)
奈保子は躊躇するようにしばらくそのままでいたが、やがて意を決したように扉を叩いた。反応がない。もう一度叩いた。
「桜庭です!」扉に向かって声をかけた。磨り硝子の向こうにゆっくりと人影が動くと扉が開いた。
「どうしてここが…」壬生が細い目を見開いた。
「亜希子さんに教えてもらったの」亜希子は工場の事務係で会社の保険契約の窓口になっていたせいで奈保子と知己があった。
「いろいろたいへんだったみたい」
「まあ…でもどうしてここに」
「泊めてほしいんです」奈保子の唐突な申し入れに一瞬、壬生の表情が歪んだ。
「…よっぽどのことだな。ひとり暮らしの男やもめのところに訪ねてくるなんて。…良くないよ。帰ったほうがいい」
思ったとおりの言葉に奈保子は失望した。
(鈍感…)
奈保子は壬生に聞こえるように呟くと足元のボストンバッグを取り上げて、奈保子は来た道を走った。
…
友人の家に身を寄せていた数日の後、上野の家にいったん戻ったとき、武美は奈保子の不貞を喚きたてた。
奈保子は知ってはいたが黙っていた武美の不倫相手のことを口にした。それは奈保子のかつての同僚だった。
武美は驚愕して、その夜、奈保子の体をいたぶった。
「スーツ姿がお好きなようですから、着替えてきましょうか」奈保子は挑戦的になった。
その夜から奇妙な夫婦生活がはじまった。武美は奈保子を苛め抜くことで性的興奮を覚えはじめた。
奈保子は寝室で大声を出して叫んだ。魚彦にも聞こえるほどの声をあげた。
…
野球バッグを肩に掛けて出かけて行く魚彦の姿を眺めながら、
(これからどうしよう…)とは思えてきたが、
(魚彦がかわいそうだ…)といった思いにはまだ立ち至っていなかった。とはいっても、
(武美に女をつくられてあわれだ…)といった思いは微塵もなかった。
(なんとかなる…)
奈保子は根拠のない自信を抱いていた。
五
離婚が決まって、奈保子は一度は混乱を整理するために帰郷したある時、
「あなた再婚する気はないの?」隣に立った母の久美子が言った。
「面倒くさい」奈保子は興味なさげに洗い物の手を見つめたまま言った。
「好きな人くらいいるでしょ」
「まあ…」
「会社の人なの?」久美子が心配そうに聞いた。
「今の会社にそんな人いると思う?」奈保子が曖昧に笑うのを久美子は困った顔をして見ていた。
その久美子が突然倒れた。奈保子は魚彦を育てながら、久美子の看病に追われた。
…
奈保子は武美と別れてからも保険の外交を続けた。持ち前の愛らしさと誠実さから多くの客がついた。
この春に入社したばかりの女性社員に「奈保子さんってずっと独身なんですか?。そんなわけないですよね。こんなに可愛いいいんだから」
「ひとりよ」
「どうしてなんですか?」
「どうしてって、どうしてかしらね」目を見開いて尋ねる若い社員に奈保子は笑みを向けた。
その時、奈保子は忘れかけていた壬生のことをふと思い出した。―会いたい、奈保子は彼女の声を遠くに聞いていた。
そんな時、魚彦のある言葉が奈保子の気持ちを押した。
…
「東京で野球がしたい」教師との面談からの帰り道、魚彦は切り出した。
(東京か…)
久美子の死顔を思い出しながら、もうここにいる必要のないことを感じていた。
まざまざと思いすことのできた姿かたちが時間とともにおぼろげになっていくにつれて、むしろ奈保子は壬生のことを強く思うようになった。
つまり【こと】だけがせつなく思えてくるのであった。
(会いたい…)
その想いで携帯電話のボタンを押した。呼び出し音を聞きながら電話機を持つ手に力がこもる。
(もう忘れたのかしら…)
電話を切ろうとしたとき、もしもし、しわがれて、少し細くなってはいたがその声は壬生のそれだった。
「もうかかってこないとあきらめていたんだ…」
『こどもが大きくなってから…』
奈保子は壬生の声を聞きながら、あの時の自身の言葉を思い出していた。
六
「遠くの客で、しかも道が混んでいたから」壬生はそう言いながら隣に座った。
「ほら」奈保子はグラウンドを指差した。ネクストバッターサークルに背番号16の魚彦が片膝を地面についてバッターボックスを見つめている。
四点を追う九回表の二死ランナー無しの状況で応援席からはブラスバンドの楽器音と生徒らの声援が選手たちに向けられている。わっ、歓声が上がった。打球はセンター前に抜ける。奈保子が立ち上がって拍手をした。
「×××くんに変わりましてバッターは桜庭くん。背番号じゅうろく」場内アナウンスが球場に響くと大きな声援が魚彦に向けられた。
「初めてなの。あの子」奈保子は顔の前で両手を組んだ。横顔には涙が浮かんでいる。
魚彦はバットの先をピッチャーに向けなが吠える。
二球のボール球を見送った。
ピッチャーは長いセットポジションのまま一塁ランナーを肩越しに見つめる。
その肩が一塁側に開くと矢のようなボールが一塁手のミットに収まった。
頭から戻ったランナーの手がベースに着くか着かぬかの瞬間、ランナーの手と一塁手のミットの間に指差された塁審の腕がゆっくりと上がった。
歓声と悲鳴と嘆息とが混じり合って球場を包んだ。
魚彦はその場で倒れて動かないランナーを見つめたままバッターボックスで立ち尽くしていた。
彼の高校野球生活が終わった。
…
寒さも本格的に緩んで春の訪れを実感できるようになった二月も終わろうとする頃、奈保子は傘も差さずに約束の場所に急いでいた。
駅前の通りを歩く人たちは皆傘を差していた。
点りはじめたネオンの灯りに歩道のタイルが濡れて光っている。
再び上京してから二年近く、奈保子が週末の夕暮れになると通っている喫茶店だった。
このあたりにはもう数軒しか残っていないような路地の突き当たりの二階にある古い店である。
六時を過ぎたばかりの店の中は閑散としていた。
窓際の奥の席で店の前の通りに目をやっていた壬生が近づいてきた奈保子に目を移すと煙草を灰皿に押しつけた。
「降られちゃった」コートの肩に浮いた雨の雫を手で払った。
「傘、ないの?天気予報は夕方から降るかもしれないって言っていた」
「かもしれない、でしょ」
「まあ…」
「わたし、傘嫌いなの」奈保子が薄く笑った。
「話って?」近づいてきたウエイトレスに紅茶を注文すると壬生に向き直った。
「一緒にならないか」壬生は煙草に火を点けると煙を大きく吐き出した。
「一緒に…」
「そう。結婚しないか」
「結婚!?また、どうして」
「いやか…」奈保子には壬生の声が震えたように聞こえた。
「うーん、無理してそうしなくてもいいんじゃない」
「…」壬生がせわしなく煙草をふかす。
「壬生さんもわたしもバツがついているじゃない。どうして、あんな面倒くさいことしようと思うの」
「この歳で言うのもなんだが、キミに恋をしたようだ」壬生の声が大きくなった。
「ちょっと」奈保子が周りを見回した。離れた席の年老いた客が新聞から目を離した。
「あなたの気持ち、うれしいけど、わたし、受けられない。別にこのままでいいじゃない」その時、季節はずれの雷がガラス窓を揺らした。
【エピローグ】
奈保子は何かを考えるようにして、春めいた陽の光にきらめく蜜柑の実を眺めていた。
竹の植え込みがさやいだ。
「さむい」身をすくめた奈保子の膝に壬生が毛布を掛けた。
「うちに入ろうか」
「もう少し」奈保子は体を捻るようにして、車椅子を反転させようとした壬生を見た。
「あのね、わたし、残された時間がわずかだっていうことがわかってから、傲慢で勇気のなかった自分に後悔しているの」奈保子は遠くを見るようにして話し始めた。
「壬生さんに初めて会った頃のこと。わたし、あなたに恋をしたの。生まれて初めて。わたし、あなたの奥さんがうらやましくて、ううん、妬ましくてどうしようもなかったの。でも、素直になれなくて。あの頃なら若かったから、後先、考えないで感情に任せて行動したら良かったのに…できなかった」奈保子の声が細くなった。
「ありがたい話だな。そうだとわかっていたらオレだって…」壬生が言葉を切った。
「まだ時間はあるさ」
「そうね」二人はお互いを見つめた。辺りには早くも黄昏が広がろうとしていた。
―おわり―