【短編小説#20(3)】
七
「おかみさん、意外と腕がいいね。社長よりもいいんじゃない」なじみの客がからかうように言った。亜希子が顔の前で手を振りながらカウンターの奥に目を向けた。その客は立ち上がると白い上っ張りに和帽子を頭に乗せた男の背中を見た。
「だれ?」
「あたらしい板さん」
「へえ、おかみさんもすみに置けないね」
「まあ、そんな冗談を。主人が見てるよ」亜希子が天井を指さした。
「いけねえ」客は気まずそうに肩をすくめた。
…
壬生の腕は確かだった。手さばきばかりでなく、仕入の目、食器の選択、支度、片づけそして身だしなみといった料理に対する基本が身についていた。
「体がいうことを効かなくなってからも、親父はそれだけはやかましくて。やかましいと思いながらも相手が病人だから、こっちも仕方なく聞いていましたよ」ある晩、店じまいをしながら壬生は亜希子にそんな話をした。
「私たちなんて、たまにお客さんが遅くまで残っていた日なんか、あしたでいいか、なんて済ましていましたよ」亜希子が笑った。
「そうですか」壬生も笑った。
「ご家族だからいいんですよ。何でもちゃんとしなくても。でも私は勤め人だからちゃんとしなくちゃいけない」崩した表情をあえてそうするように壬生は目の光に力を込めた。そうしたことで却っておかしくなった壬生の顔つきを見て亜希子が笑った。
「何がおかしいんですか」壬生はさらに強い光を目に込めようとした。そして笑った。久しぶりに無邪気な笑いが店の中に響いた。
八
「かあさん、わたし会社やめることにしたの」食事の後片付け始めた手を止めて亜希子は顔だけを向けた。
「なに?会社をやめるって聞こえたけど」亜希子は湯沸かしを止めると向き直った。
「そう、やめるの」
「やめるって、どうして…」
(ふう…)
奈保子は息をつくと冷蔵庫から缶ビールを取り出し、その場で立ったまま喉を鳴らしながら飲んだ。
「急にやめたくなったの。どういうわけか…課長にはもう話した」
「…」亜希子は黙ったまま奈保子を見つめた。
「やめてなにをするのよ。おカネだってどうするつもり」
「少しだけど退職金出る。貯金も少しある。お店手伝うの」
「お店は、板さんに来てもらってるから手は足りているし、これ以上、お給料払えるほどもうかっているわけじゃないから」亜希子は眉根を寄せた。
(あまかったかしら…)
奈保子の気持ちが揺れた。
「考え直せないの?課長さんに言って。板さんがいるから店は心配ないから」
(板さん、板さんって…)
奈保子は頭に血が上った。
「板さん、板さんっていったいなんなの、かあさん、ちょっとおかしいんじゃないの」奈保子は飲みかけのビールを飲み干すと、自身の部屋に入っていった。
(あの子ったら、何を考えてるのかしら…)
亜希子は湯沸かしに火を点けた。
九
「課長さんによく言っておくのよ」
「もう、わかったわ」ライトブルーカラーのバックスキンパンプスにベージューカラーのストッキングに包まれた脚を入れながら応える奈保子は不機嫌そうに答えた。
家の外は昨日までとは力強さが明らかに違う朝の陽ざしが街路樹の緑を際立たせていた。バス停にはこれまで一度もあいさつを交わしたことのない見知った顔が今朝にはなかった。バス停に立った奈保子の脚元に夏に陽に温め始められたアスファルトの道を蜂の死骸を運ぶ蟻が近づいてくる。
(もうちょっとよ…)
蟻の奮闘に奈保子は心の中で声をかけた。
(わたしはどうなの…)励ましているのか、励まされているのかわからなかった。
腕時計を見やると定刻は過ぎっている。それはいつものことだったから大して気にはしていなかった。
(はやく!)そのとき中年の醜く肥えた女があえぐようにしながら自転車を漕いでくる息遣いが右手から聞こえてきたかと思うと女が奈保子の視線を遮った。よろよろと車体を揺らしながら遠ざかってゆく女へ向けていた視線を足元に戻すとそこには形のなさない蜂の姿があった。
(あんなたが轢かれてしまえ…)
奈保子はもう一度、女に視線を戻すと呟いた。
そのとき、バスが車体をバス停に寄せるウインカーの音が近づいてきた。
十
(こんなことってあるかしら…)
社屋のひとの動きを真正面から眺めることのできるハンバーガーショップの窓から奈保子は始業時間から間もないつかの間のひとの動きが途絶えた玄関を眺めながら思った。
(くぐりなれた開け放たれた扉に向けて足が一歩も出ないことがあるなんて…)
奈保子は店を出た。社屋から出てく人たちの中には見知った顔があった。その表情、動きは一様ではないがどれも生気を帯びて映る。
(わたしだけが取り残されている…)
ありふれた感情があまりに切ない。奈保子は笹川との会話を思い出していた。
「もう現場はいいだろう。本社にあがってきたらいい」笹川の本意を理解した。
設計監理で工事現場に赴いていた奈保子は材料を卸す業者の社員と男女の関係にあった。その男がゼネコンとの材料の納入にあたって不正な取引があったことで、奈保子はその男に妻子があることを知った。そして、その男との関係が会社に知れるところとなった。
「きみの現場でまずいことがあったことは知っているよね」笹川は奈保子の顔を覗き込むようにした。
「いいえ」奈保子はきっぱりと答えた。狭い会議室の換気扇の音が響いた。眉間にあてた指を外すと笹川は目を閉じた。
「どうにも好ましくない話が聞こえてきたものでね」わざとらしく絞り出すような声でいった。笹川の話は奈保子が知っていることの域を出なかった。
(まるで悪人扱いだわ…)
「わかってもらえないかね、よく考えてほしい」笹川は部屋を出て行った。奈保子は笹川に対する腹立ちよりも組織の理論が個の事情よりも優先することにそら恐ろしさを覚えた。
十一
映画館は平日の割に席は埋まっていた。行き場を失った奈保子が逃げ込むには適当な場所だった。
(こんなものかしら…)
観たいと思っていた映画だったが、平たい印象が強すぎて楽しめなかった。というよりも、映画を楽しめる心持でなかった。スクリーンを流れてゆくエンドロールを見ているうちに気分が悪くなって目を閉じた。音楽がやんで、あたりが明るくなった。ほかの客の気配がなくなって目を開いた。
片づけ道具を手にした若い男の係員と目が合った。口を開きかけたその男を制するように奈保子は小さくうなずくと立ち上がった。そのとき足元が揺れた。
(どうしてこんなに高いヒールにしたのかしら…)
パンプスの先が床に引っかかって前のめりになった。
手を突こうとしたとき、肩にかけたバッグが床に落ちた。化粧品、手帳、袋に入ったままの口の開いていないストッキングそして携帯電話が床に広がった。
携帯電話にはメールの着信を知らせる緑色の明かりが点滅していた。奈保子が顔をあげると男が一歩踏み出した。奈保子が睨むようにすると男の足が止まった。
慌てて、広がったこれらをバッグにしまい込むと男が歪んだ笑みを向けた。
十二
明かりを落とし気味にした狭い店内には一日の終わりまでの束の間をここでやり過ごそうとする男女で満ちていた。窓際の二人が向き合うテーブルの端に置かれたキャンドルグラスの中の炎が微かに揺れている。
(どうして誘っちゃったのかしら…)
神崎のシーザーサラダを起用に取り分ける手つきを奈保子は後悔の思いで見つめていた。梅雨が明けたというのに未練がましく降り出した雨に濡れた路面に街の灯りが窓の外に揺れている。
「もう会わないっていったのはキミの方じゃなかったかな」神崎が手を止める。
「…」奈保子はワイングラスから口を離すと息をついた。
「なにかいってよ。そうだったよね」
「きちんとしておきたくて」奈保子は惚れた方が負けだってことに自覚的だった。神崎が自身の優位性のもとに駆け引きを仕掛けていることも理解していた。
神崎には妻子があった。一緒になれないことがわかって踏ん切りがついた。
「きちんと…なにを」神崎のはぐらかすような物言いが癪に障った。
「このままでいいじゃない、そんな怖い顔するなよ」神崎はピザの一片を取り上げると口に運んだ。
奈保子はテーブルをたたくと立ち上がった。一瞬、幾組かの客が二人に視線を向けた。何も答えぬままに奈保子は神崎に背を向けると出口に向かった。
「おい」神崎の声に奈保子は振り返った。
「カネはぼくが払っておくから」奈保子は胃の中のものがこみあげてくるのを感じながら足早に店を出た。
―つづく―