【連載小説#41】(八回目)
(「壬生七郎か」信男は腕を組んで何かを考え込むようにした。
「そうよ」どこか期待を込めたような自身の物言いに奈保子は恥入る感を抱いた。
「野球をやっていたというが…」
「ええ、社会人野球で。私の会社で…」
「M社でか」M社とは今、奈保子が勤めるP社の旧社名である。
「そうだって聞いてる」
「Mの壬生といえばかなりの名選手だ」何かを懐かしむように信男の表情が緩んだように奈保子の目に映った。
「もし、その男がその壬生だったら会ってみたいな」信男は煙草を大きく呑み込んだ。
「きっとそうだと思うわ。あのひと野球のことあまり喋らないから」
「…」信男は煙を盛大に吐き出した。)
一
その声を耳にした途端、奈保子はキャベツを刻んでいた包丁の手を思わず止めた。
隠しごとをしていたところを見つかって、後ろから肩を叩かれたように鼓動が高まった。
「ああ、腹減っちゃったよ。ごはんまだ?」
魚彦がダイニングテーブルを指で叩いた。
奈保子は魚彦に気づかれないように息をひとつ吐いた。
「もうすぐだから待ってて。手は洗ったの?」
「ん、なに?」
ヘッドスライディングでもしたのか少年野球のユニホームを着た魚彦の鼻先と左の頬が赤くなっている。
「手は洗ったの?って言ったの」
魚彦は唇を突き立てるようにして、まだだけど、と言って風呂場の方に歩いて行った。水道の蛇口をひねる音がして、おざなりに手を洗っている気配がする。
「足も洗ってちょうだいね」
返事は帰ってこないが、魚彦は奈保子に言われたことはする。
十歳という年齢にしては、世間で聞くほど反抗的な態度は取らない。母子家庭の子供は何かと問題が起こりますから、と小学校に入学したときに担任の女教師から言われたが、今のところはそんな様子もない。
二
魚彦に夕食を食べさせた奈保子は翌日の食事の支度をしながら障子越しに魚彦の様子を窺った。
テレビの音は聞こえるが、ニュースキャスターの声である。
(寝たのかしら…)料理の手を止めて障子を開けた。やはり、テレビの前で横になっている。奈保子はテレビのスイッチを切って、眠っている魚彦の顔を眺めた。
夢でも見ているのだろうか、小さな鼻にしわを寄せている。男の子にしてはまつ毛が長すぎる。
―鼻はわたし、目は武美に似ている…奈保子は呟いた。
魚彦を起こして寝室へ行かせた。
「明日は試合だからね…」寝ぼけ眼(まなこ)で魚彦は言った。
「そう、がんばってね」頷いている魚彦は半分眠りに落ちていた。
奈保子はダイニングチェアに腰を掛けた。
窓の外から、少し離れたところを走る貨物列車が遠ざかってゆく音が聞こえてくる。
コーヒーを淹れた。コーヒーメーカーの湯の沸く音と豆の匂いが部屋に膨らんだ。奈保子は立ち上がって窓辺に立った。
夕刻、魚彦が帰って来るなり椅子に座って、
「ああ、腹減っちゃったよ。ごはんまだ?」といったとき、それが壬生の言い方と瓜ふたつだった。思わず包丁の手が止まった。
(まさか…)と思うのだが、振り向くと壬生がそこにいるような錯覚が魚彦のなんでもない口のきき方にあらわれる。数ヶ月前までにはなかったことである。
―ああ、そうだ、奈保子は呟いて立ち上がると、和室に行って魚彦の野球のウェアを揃え始めた。
アンダーソックスにアンダーシャツ、ユニホームの上下などを揃えているうちに一ヶ月ほど前に魚彦には内緒で彼の野球の試合を見に出かけたときのことが思い出された。
三
その日はダブルヘッダーで試合があると聞かされていた。
奈保子は午前中の試合を見に出でかけた。
川の堤沿いの道を七月の風に吹かれながら歩いていると、こうして天気の良い日に野球場へ出かけたことを思い出した。
試合はもう始まっていた。
一塁側のベンチを魚彦のチームが陣取っていた。奈保子は三塁側のベンチの後ろに生えている欅の木の陰に立った。
見慣れたユニホームの子どもたちがダイヤモンドのポジションについていた。魚彦はその中にいなかった。意外だった。魚彦がベンチにいるとは思ってもみなかった。ベンチに残っている十数人の控えの選手の中に魚彦はいた。ベンチの一番片隅でグラウンドを見つめていた。遠目ではあったが、魚彦の表情は家の中で奈保子が見てきたものとは違っていた。
そのうちに出番が回ってくるだろうと奈保子は期待していたが魚彦の出番はないままに試合は終わった。試合が終わると、魚彦はグラウンドを整備するいわゆるトンボを抱えて、奈保子のいるそばの三塁の辺りを整備し始めた。奈保子は自身の姿を見つけられるのではないかと身をかがめた。そっと覗くと、魚彦は黙々とグラウンドの凹凸をならしていた。ときどき小石を見つけては放り投げる。それは決して喜んでやっている作業には見えなかった。奈保子は胸のどこかが痛くなるような気がした。
昼食の時間になって魚彦たちは外野の芝生で食事を摂り始めた。仕事の関係で約束の届けものがあって、既に行かなくてはならない時間が過ぎていたが、奈保子はそこを立ち去れなかった。魚彦が選手たちのあいだをやかんを抱えて麦茶を注いで回っていたからだった。
(どうして魚彦だけがあんなことをさせられているのだろうか…)そう思うと選手の輪の中心に座って弁当を食べている監督らしき大きな男に腹が立ってきた。
(野球をさせにいっているのに、なんであんな小間使いのようなことをさせられなくちゃいけないの…)時間がいっぱいになって、奈保子はグラウンドを出た。
―つづく―