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【短編小説#14】

(バブル経済の名残りが失せ切らぬ頃の話である。)

 奈保子は縁側の柱に寄りかかって、春めき始めた陽の光に煌めく庭木の蜜柑の実を眺めていた。まどろみ始めた奈保子は幼い頃の出来事を夢に見た。

 ソフトボールチームの夏合宿の時だった。

 三年生の夏、ひとり寝を始めていくらも経たない頃だった。その寂しさにも慣れはじめていたが…チームメイト8人の部屋で四つの二段ベッドから寝息が響き始めた頃、奈保子ひとりが闇の中で目を光らせていた。奈保子は隣りの仲間に気づかれないようにベッドを出た。

「おお、ナオコ、どうした?」大人たちの部屋の扉を開けると赤ら顔の監督の男が声を上げた。

 事態を察知したコーチとして同道した父が近づいてくると、部屋を出て、後ろ手に扉を閉めた。

「寂しくなったか?大丈夫、とうさんは近くにいるんだから。ナオコはもう、大きいんだから頑張らないと」父は大きな手のひらを奈保子の頬に当てた。

「…」奈保子は黙ったまま頷くと仲間達の部屋に向かって歩き出した。振り向くとそこには父の姿はなかった。

 北関東の地にも大都市の潤った金のしずくが落ちてきた。地方の金融機関も担保至上主義によるリスクマネーを抱え始めた。

 リゾート地の開発資金需要に応じようと、壬生七郎は昼夜を問わず融資先を求めて町の担当エリアを駆け回った。併せての連日の酒席が祟ったのか七郎は倒れた。

 力が入らない、亜希子が夢うつつの中で七郎の声を聞いたのは寒さも底を打つか、という冬の夜明け前のことだった。

 板の間の置物が倒れるにしては、あまりにも不自然であって、それがのっぴきならないことを亜希子は布団の中で理解した。

 七郎が脳こうそくで倒れて、一家の稼ぎ頭を失った壬生家の生計を立てるために亜希子は病身の夫と二人の子どもを抱えながら小さな小料理屋を始めた。

 亜希子はこの辺りでは知れた美人であったから店はそこそこ流行った。酒もいけるほうで客の勧めにも付き合った。言い寄る男も少なくなかった。

 それでも、亜希子は持ち前の前さばきの良さとハッタリの強さで必要以上に男を近づけなかった。

 亜希子は自らの境遇を嘆いたり恨んだりする性分ではなかった。商売をしながらも夫を甲斐甲斐しく看て、二人の子ども(兄妹)を育てた。

 ただ、病のせいで思うとおりにならない思うどおりにゆかない自身のもどかしさからか疑り深くなった七郎が、不貞をはたらいているのではないかと子どもたちの前で自身をなじることには閉口した。

 悲しかった。

(放っておいたら…このつらさから逃れることができるのかしら…)

 次の瞬間、いっときでもそう思った自身を亜希子は全力で非難した。

 ある日、朝になると、酒を求める七郎がいつものとおり亜希子をなじり始めると、娘の奈保子が七郎の目の前の酒の入ったグラスを取り上げた。

「かあさん、こんなこと言われていていいの?」声を上げた。

 七郎は開きかけた口をそのままに、テーブルの一点を見つめたままに身体を堅くしていた。

「なおこ、とうさんの好きなようにさせてあげて」亜希子は穏やかな表情を向けた。

「信じられない!」奈保子はスポーツバッグをに取り上げると、

「もう行く」そう言い残して、乱暴な足取りで家を出て行った。

「先に乗ってて」台所から亜希子の声がする。

 奈保子は軽ワゴンの運転席に座るとキーを回した。

キュルッ、ゴフッ、咳き込んだような音が弾んで、小刻みで規則正しいうなり声に変わる。

 亜希子が窓ガラスを叩く。

(あなたは隣(となり)…)

 口の動きが言っている。奈保子が窓ガラスを開く。

「あなたはとなり」亜希子がもう一度言う。

「あたしが運転する。事故られちゃ、元も子もない」

(元も子もない…日本語としていかがなものか…)などと考えながら、母親の言っていることにさして不合理さはないことを納得しながら、奈保子は車の後ろを廻って助手席に乗り込んだ。

 雪の残る山あいの道をスムーズなギアチェンジで、亜希子は淡々と車を走らせて行く。

 亜希子がドアを開ける。冷たいが確実に春の匂いを含んだ風が奈保子の肩に掛かった髪をとかす。

「さむい!?」亜希子の声はいつも大きい。

「さむくない!」奈保子の声が窓から外に流れてゆく。

「東京には悪い人間が多いから気をつけなさいよ」亜希子がフロントガラスの先を見つめながら言う。

「うん。わたしは大丈夫。でも、心配…」

「とうさんでしょ。平気よ。あのひと、若い時、野球で鍛えているから」

「そうじゃない。かあさんよ。頑張りすぎるから」奈保子がフロントガラスの先を見つめながら言う。

「…あら、急がないと」亜希子はフロントパネルの時計に目をやるとアクセルを踏む足先に少しだけ力を込めた。

 銀座の百貨店に就職した奈保子には母親の美しさに併せて彼女自身がもつ愛嬌が備わっていて、すれ違う者が振り返るほどのその愛くるしさは多くの客の関心を引いた。

 奈保子はそのうちのひとりと結婚した。相手は離婚歴のある、ひと回り以上歳上の会社を営む男だった。

(社長夫人ね…―いけない…?)

 その一方では、

(ひとりごちになることで不幸が訪れないかしら…)

 そんな迷信じみたこと考えながら有頂天になりかける自身を諫めた。

 迷信があたることもある。一緒になってみると離婚歴に合点がゆくほどに夫は暴君だった。子どもができないことをなじられた。

 奈保子は自身の尊厳を否定された思いがした。

 結婚生活は三年足らずで終わった。仕事は続けていたが、周りからの異様な関心に耐えられずにそれも辞めた。

 ゆっくりと確実に心と頭の奥深いところにしみのようなものが広がってゆくのが確からしくなって心の乱れが治まらなくなった。

 気丈な奈保子もたまらず亜希子に弱音を吐いた。

「帰ってきたら…」亜希子の言葉に、

(いまさら田舎にもどるなんて…)

 理屈に従って生きることに窮屈さよりもむしろ生きやすさを選ぼうとしている自身に反発を覚えていた。

 本当のところは、あの父親のいる場所に戻ることに腰が引けていたのであるが奈保子はそこのところを明確に意識していない。

「この頃、お医者さんに診てもらうとき以外はうちから出ないのよ」食事の支度をしながら亜希子が言った。

「あなた、とうさんをドライブにでも連れていってよ。気晴らしになるでしょう」この地を離れて東京に出て行ったのはこの時期だった。

(…あそこがいい)

 軽ワゴンは山あいの道をエンジン音を響かせながら登って行く。

「さむくない」、「おなかすかない」、「トイレ大丈夫」奈保子の問いかけに、助手席の七郎は無表情のままフロントガラスの先を見つめている。

(はあ…)

 奈保子の歎息が車内に広がった。

 公園のベンチに腰掛けた二人の間には、亜希子が拵えた弁当があった。

 それに黙々と手を伸ばす七郎に「お酒持ってきたよ」奈保子が声をかけた。

 七郎が首を振る。

「そう…山がくっきり見えるよ」奈保子が南アルプスの山並みを指差した。

 七郎の横顔に陽が当たって剃り残した髭が光っている。

「おお…」七郎も指差した。

「ちょっと歩いてみない」奈保子が手を差し出すと、七郎が腰を浮かせてその手を握り返す。

 七郎は奈保子に腰を支えられながらおぼつかない足取りを運び出した。

 そのログハウスの敷地の入り口の銘板には消えかかった企業の名前が刻まれている。

 敷地にめぐらされた金属線に立ち入り禁止の板がかかっている。

「よその会社の保養所になるのかしら」奈保子の声に七郎は答えずにその建物を見つめたまま立ちすくんでいる。

 朽ちかけた建物は奈保子の記憶よりもずっと小さく見えた。

「とうさん」七郎に奈保子の声は届かない。

「とうさん、疲れた?」コタツの中の七郎は亜希子の声に頷くと横になった。やがて低いいびきが鳴り始めた。

「いい顔しているわ。とうさん」亜希子は七郎に布団をかけると、手のひらを七郎の頬に当てた。

「なんか見ていられない」奈保子は立ち上がった。

(とうさん…)

 奈保子は自分の声で目を覚ました。表情を緩ませた七郎が奈保子を見つめていた。

―おわり―

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