【連載小説#41】(12回目(終回))
(「夏の甲子園地区予選に三回戦で負けたあとで、壬生さんが、私を呼んで『おまえは将来プロ野球になりたいのか』って言われたんです。私がそうですと返事をすると『おまえならきっとなれるよ、がんばれ』と言われてから最後に『野本、野球はいいだろう。オレは野球というゲームを考え出したのは人間じゃなくて、人間の中にいる神様のような気がするんだ。いろんな野球があるものな。お前にもそのことをわかってほしいんだ。自分だけのために野球をするなよ』って…、なにか変なことを言うひとだなって、そのときは思いました」
野本は言葉を切るともう一度煙草に火を点けた。)
一
「正直に言うと、私にエースの座を奪われた悔しさを最後に話していったんだろうかって。私は甲子園へゆくことができずに関西の実業団のチームに入りました。そこからプロの選手を目指しました。ところが二年目につまづきました。それでもなんとかプロへと三年頑張りました。プロのスカウトも様子を見にきてくれました。しかしうまくいきませんでした。野球以外になにもできない人間でしたから、遊ぶようになって、半分グレたような暮らしになりました。そんなとき壬生さんが訪ねてきました。『帰ってこい野本、地元へ帰ってまた野球をやろう』と言われました。野球はもういいですよって言ったら、『そうだろう、つまんない野球はもうやめろ。神様がこしらえた野球をやろうや』と笑って言われました。それから半年、壬生さんの言ったことを考えて、こっちに戻ってきたんです。高校の監督も三年やらしてもらいました。甲子園へはいけませんでしたが、それだけが高校野球ではないこともなんとなくわかりました。そして何よりも楽しかったのは壬生さんたちとやった草野球でした。私は、もし壬生さんに逢うことがなかったら、きっとつまらない野球をした男で終わっていたでしょう。そんな野球と出会えてから、この町がひどく好きになったんです」
野本は空を流れる雲を眺めながら話を続けた。
『壬生さんに病室に呼ばれたのは、手術が終わってから二週間が経ったときでした。私には壬生さんはひどく元気そうに見えました』
野本が言っているのは壬生が術後二週間して一度驚くほど回復したときのことを言っているのだと奈保子は思った。
「壬生さんは『あいつの息子がもし野球をしたいと言いはじめたら、野本、お前が教えてやってくれ』と言われました。私は奈保子さんの息子さんだとおっかないと言って、壬生さんが教えたほうが上達しますよと答えました。『野本、お前の野球にはもう神様がついているよ。頼んだぞ』って手を握られました。そのとき、私は先輩の身体がそんなだったとは気づかなかったんです。つくづく自分は馬鹿だなって思いました。いつもあとになってわかるんですから…」
野本の目が潤んでいた。それよりもスカートを必死で握りしめて涙をこらえていた奈保子の手の甲に大粒の涙が堰を切ったようにこぼれ落ちた。
「かんべんしてください、つらいこと思い出させてしまって…」
「す、すみません…」言葉は嗚咽にしかならなかった。
「すみませんでした。なにも知らないで」
「もうすぐですよ。もうすぐ桜庭三塁手も試合に出られるようになります。壬生さんの話をすると桜庭君の目が輝きます。名選手にならなくったっていいんですよ。自身のためだけに野球をしない人間になればいいと思っています」
奈保子は立ち上がって野本の前に起立すると、
「本当にすみませんでした。魚彦をよろしくお願いします」と言って公園を飛び出した。
二
魚彦が楽しみしていた日曜日の試合が雨で中止になった昼下がり、奈保子はベランダにもうひとつてるてる坊主を吊るした。
「ちぇ、雨やんだよ」
ベランダから魚彦の声が聞こえた。奈保子は障子を開けた。雲の切れ間から九月の夕日がベランダの手すりに頬づえをついている魚彦の身体を包んでいた。ひと夏を超えると息子の背丈が少し伸びたような気がした。
「本当に晴れたね」
奈保子の声に振り向いた魚彦の恨めしそうな表情が残っていた。
「ねえ、かあさんとキャッチボールしようか」
「本当に、かあさん、キャッチボールできるの?」
「できるわよ。おじさんから教わったんだから」
「よし、なら外に行こうよ」
魚彦の声が弾んだ。
「よーし、桜庭三塁手」
ふたりは堤の道を歩いて河原に行った。
「いくよ」
「いいわよ」
素手で受けてみると、思ったより魚彦の投げる球は重かった。
「グローブ貨そうか」
「平気平気」
手のひらの痛さは息子の重さだと思った。それでも魚彦はグローブを渡してくれた。
「いいのよ、そんなにゆっくり投げなくったって」
「いいよ」
やさしい子だと思った。とんでもないところに奈保子が球を投げてしまっても魚彦はそれを走って拾いにゆき、柔らかいボールを返してくる。それがどこか頼もしくて無性に嬉しかった。
魚彦の球を取りそこなって奈保子は草むらを走った。草の中の白い球を拾うおうとした瞬間、
(またいつか、この子とキャッチボールできるかな…)
壬生の声が不意に奈保子の耳の奥に聞こえてきた。
奈保子は球を持ったまま空を見上げた。
「どうしたの、かあさん」
そこには青空がいわし雲を西へ押しのけながら広がっていた。どこかで草が風に鳴る音がした。すると雨だれが一粒頬に落ちてきたように冷たいものが目尻から耳たぶにこぼれた。
「どうしたの、かあさん」
「なんでもないの」
奈保子はグローブで濡れた頬を拭うと、右手をぐるりと一周回してから、身構えている魚彦に向かって、笑いながら白球を投げた。
―おわり―
…
「やっぱりムリだ」壬生が呟いた。
「なにを言ってるのよ!?」奈保子は旅行鞄をバス停のベンチに置くと、行ってしまったバスの後ろ姿を恨めしそうに見つめながら声を上げた。それを見た魚彦が奈保子の顔を見上げた。
「おやじさんのとこに行ってくるわ」
「だから、何を言ってるのよ!?」
「一緒になるってこと、やっぱりムリだって」
「なによ、いまさら。いい大人がそんなこと…」
「…いい大人だからこそ言っている。親父さんが認めてくれたわけじゃないし」
「大丈夫よ、うまれてこのかた、とうさんのあんなにごきげんな姿、初めて見たわ」
「いい加減なことを言うなよ。きみに物心がつく前はどうだった?幼い頃の記憶なんてあてにならん」壬生は遠くを見るようにして言った。
「あのね、どうしたの?」
「やっぱり、この歳になって魚彦の人生を背負っていくのはムリだ」
…
また一日、奈保子のいつもの一日が始まる。
そして朝シャワーを浴び、バスタオルのまま出てきたらストッキングに脚をすべらせ、あわててパンプスを履き、レインコートをはおったらアパートを出ていく。
―完―