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【短編小説#34】
一
車内には暮れ方の陽が差し込んでいた。車輌が北に向かうにつれて客はまばらになってゆく。あっ、肩を叩かれた男は上げかけた声を呑み込んだ。傲慢ともいえるほどの穏やかな女の微笑みは巻き戻されたビデオテープに焼きつけられたような記憶を壬生七郎の意識にまざまざと再生させる。…奈保子、【桜庭】と書かれた胸の名札が女が奈保子であることを男に確信させた。
「壬生さん…お久しぶりです。お仕事?」
「奈保子か…こっちは相変わらず販売店まわりだ」申し訳程度にしか倒れないシートを起こしながら壬生は胸のポケットから取り出した眼鏡を鼻にかけた。
「よくわかったね…」
「ええ」奈保子は穏やかな笑みのまま頷いた。壬生は姿勢正すと、奈保子の足元から視線を上げてゆく。
「似合うね」アテンダントの制服姿を壬生が褒める。
「…」奈保子は笑みを崩さずに目だけで承認した。「広告には戻れないの?」
「ああ…」
「そう…どちらまで?」
「渋川にね…」
「そう…」
「キミは?」
「前橋で降ります…」
「そうか…オレも乗り換えだ」『ねえ?あんた…ハイボールちょうだい』「…」奈保子が初老の客に顔を向ける。
「降りてからちょっと…会って…」奈保子はつぶやくように言い残すとパンプスの低いヒールを床に叩きつけるようにして男に近づいて行った。
二
平日の夜ということもあってか、地方都市の歓楽街にあるホテルのロビーは閑散としていた。待ち合わせの時間はとうに過ぎていたが、壬生はあくまでもそれに頓着せずに、ふたりの付き合いのきっかけから言葉を失ったバーでの夜を思いしていた。
▼
桜庭奈保子が手伝ってくれたおかげで残業が思いのほか早く終わったことの礼をしたくて壬生が奈保子を食事に誘った。
ふたりが向かったのは会社の人間たちの多くが行きつけ、顔を出す洋風の居酒屋だった。小一時間ほど飲んで壬生はほどよく酔うと、奈保子に『そろそろ帰ろう』と言った。そのとき、テーブルの下で奈保子が壬生に脚をからめてきた。―誘っているということか…さすがに取引先の女性に手を出すのはマズいだろう…しかも、会社の同僚たちも近くで飲んでいるし…壬生は当惑した。
結局、『先に帰る』と奈保子に言い、その日は何もなく終った。これをきっかけに二人の仲は一気に深まった。
…
▼
「確かにあなたとわたしは婚約しているわけでもないし、ただの【肉体関係のある友人】なのよね。だから、なんらお互い束縛されることはないわけ…つまり、自由恋愛できる立場なんだから、誰とつきあおうと勝手。それはわたしにもわかってるわ」このところ抱かれる数が少なくなったことをなじるように奈保子が言った。
「いや、そう言われると…そうかもしれないが…」
「ごめん、わたし、ちょっと化粧室に行ってくるわ」同席した男に目配せをした奈保子が席を離れた。
…
神崎武美は奈保子の姿が見えなくなるのを確かめると切り出した。
「壬生さん、このことは言うまいと思っていましたが…」
「なんだ?」
「桜庭奈保子とつきあっています」広告企画部の部下で大学の後輩にもあたる神崎は壬生に対する態度は徹底して従順なはずだった。
「うん…」―こいつもか、奈保子は壬生らが勤める家電メーカーのこの部署に頻繁に出入りする広告代理店の営業職員だった。奈保子は、持ち前の美貌を兼ね備えた可愛らしさと人懐こさで、広告企画部のみならず建物内ですれ違う男たちの関心を引いた。
「以前、部署の宴会のあと、壬生さんと奈保子が抱き合っている姿を見かけてから気になっていた…黙ってこのまま奈保子とつきあうことはぼくにはできない」
「そうか、わかった」
「あ、このことは奈保子には言わないでください、彼女も知られたくないはないだろうから…交代です、今度はぼくがトイレに行ってきます」
…
「…」
「壬生さん、わたしね…」
「…」
「好きな人ができたの…今、そのひととおつきあいしている」
「うん…」
「うん…って、それだけ?普通ならこういうときはもっとわめいたり、相手の名前を訊いたりするんじゃない?」
「…」
「じゃ、私から相手の名前を教えてあげる。神崎武美さん、今、わたしたちと一緒に飲んでる神崎さんよ」
「うん…なんとなくわかっていた」
「どうして?」
「それは言えない…」
「でも、どうして?そう思ったのならどうして、『そうじゃないか』って、わたしに訊かないの?」
「訊いてどうするんだ?訊いたら不愉快になるだけだ。知らないままだったらハッピーでいられる」
「…そうね、それが壬生七郎流の生き方ね」
「そう、人に干渉されるのは好まない」
「わたしはね、壬生さん…、ここであなたがヤキモチを焼いてくれたら、神崎さんとのこと、もう一度考え直してみようかなと思ってみたけど…、私はそんなに愛されていないんだと、今、わかった」
「いや、違うぞ、愛しているけど、干渉はしたくないだけだ」
「わたしは、そんなあなたが好きだと、自分に言い聞かせてきたけど、もうやめたわ。少しはわたしに干渉してほしい!」
「…」
「それができないのなら、別れるしかないわ」
「…」
「…」神崎が戻ってきた。
三
「あのときは、はっきりいってショックだった」携帯電話に入っていた『しばらく、あなたから離れて生きようと思います』という奈保子からのメッセージに対する思いを壬生は話した。
「自分の口から言い出せるほど、わたしだって図々しくないわよ」
「覚悟はしていたがはっきり言われると、さすがにこたえた…」
「本当かしら…」
「本当さ…」
「本当だったら、うれしい…」奈保子は壬生の胸に顔を押し付けた。
「下着姿のキミがオレの前にあらわれたかとおもったら、今度は、キミが神崎に抱かれる夢をみて夢から覚めることがあったよ」壬生が天井を見つめながら言った。
▼
「ねえ、奥さんとはどうしてるの?」
「相変わらずだよ…」壬生は身を起こすとバスローブを着けてベッドの端に腰を掛けた。
「相変わらず…?」
「子どもたちは手を離れたが、オレは、相変わらず女房に頭が上がらない」
「…」
「苦手意識ってヤツかなあ…一度相手に呑み込まれたら、なかなか自身の立場は取り戻せないものだよ」
「…遊びすぎよ。本人には、そのつもりがなくてもわかるのよ、相手には…」
「いや、オレはいつでも真剣だ」壬生はまじめくさった表情を向けた。
「今も真剣?」
「ああ…」
「それでも、帰ったら奥さん、抱くんでしょ…?」
「女房とは十年以上セックスレスだ」
「ウソでしよう?」
「本当だ。キミこそ、うちに帰れば神崎に抱かれるんだろ?」
「…」奈保子の表情がかすかに歪んだように壬生の目には映った。
「単身赴任先で女つくったの…どうもその女に揺すられたみたいで…挙げ句の果に自己破産、そして自殺未遂よ…」
「あいつが会社辞めたのは、そういうことだったのか…それで…?」
「さっさと離婚しました」
「別れた…?子どもがいるだろうに…」
「女にだらしなくて、稼ぐ力もない男に未練なんかないわ。小学一年の女の子…母のところにあずけてる…」
「おふくろさん…か」
「高崎でお店やってる、和菓子やさん」
「あずけてるって…大丈夫か?」
「ウチは近いの。遅い日もあるけど毎日帰れるし…ウチの娘ってわりとしっかりしてるしね」
「…稼がなきゃならないしな…」
「ねえ…わたしまだ三十一歳よ、女盛りなの…」奈保子は自分の穿いていたストッキングを自身の乳房にさらしのように巻きつけると壬生の肩に両手をかける。ねだるようなときにする奈保子の妙な癖だった。
「ん?」
「それなら奥さんと別れて私と一緒にならない?」奈保子が顔を寄せる。
「一緒に…?この歳になって女房と別れるエネルギーなんかないよ。考えたくもないね…」壬生の表情が固くなった。
「壬生さんらしい…わ。『一緒に…』ってのは冗談。そのかわり一月に一回は抱いてね」
「おいおい、そういうことを目標設定するかね…?」
「お互いに必要以上に干渉しないのがいい…のよね?あなたって本当に身勝手ね」
「抱きたいときに…、抱かれたいときにそうすればいい…好きなら。それ以上でもそれ以下でもない…難しく考えることはない」
「そうね…ふふふ…」奈保子は壬生に唇をあわせた。
四
「『私は五十数年間生きてきたが、こんなに心を奪われる女性にあったのは初めてだ。私の気持ちがギリギリのところまできているということもわかってほしい。頼む、私の気持ちを受け入れてくれ』なんて言われたら、さすがのわたしだって心が揺れたわ」
「歌舞伎役者か…そっちはあかるくない。どうしてまた?」
「お客さんよ。たまたま乗り合わせたひと…その日のうちに口説かれたわ」
「まさに玉の輿だな」
「そうね…」
「敵わないな…おれには。それでオレにどうしろと…」
「…」
「その役者の気持ちを受け入れてやったらいい。オレとのことは今日限りにしろよ…」
「ごめんなさい…」
「…謝ることはない。そもそも、お互いに干渉しないのがオレたちの関係だしな…」
「そうね…。じゃあ、今日は思い残すことがないってくらいに、しようよ…」
「ムリ言うなよ、もう、そんな歳じゃない」
毛布にもぐり込んだふたりはあくまでも無邪気だった。
−終−