【短編小説#35】
一
ある業界紙に原稿(その業界の専門性とは極めて縁の薄い、紙面の片隅に追いやられた馬鹿げた作り話なのであるが…)を寄せることを生業とし始めた壬生七郎は遊ぶことがなによりも好きなので、家で仕事をしていながらも、客が訪れて来るのをいつもひそかに心待ちにしている状態で、玄関が、がらっと開くと眉をひそめ、口をゆがめて、けれども、その実は胸をおどらせ、書きかけの原稿用紙をさっそく取りかたづけて、その客を迎える。
「あ、これは、お仕事中ですね」
「いや、なに…」そうしてその客と一緒に遊びに出る。
けれども、それではいつまでも何も仕事ができないので、壬生は某所に秘密の仕事部屋を設けることにしたのである。
それはどこにあるのか、家の者にも知らせていない。
毎朝、九時頃ごろ、壬生は家の者に弁当を作らせ、それを持ってその仕事部屋に出勤する。さすがにその秘密の仕事部屋には訪れて来るひともないので、壬生の仕事もたいてい予定どおりに進む。だが、午後の三時頃になると、疲れてもくるし、ひとが恋しくもなるし、遊びたくなって、頃合いのところで仕事を切り上げ、家へ帰る。帰る途中で、馴染みの酒場に引っかかって、深夜の帰宅になることもある。
…
実は、その仕事部屋はある女の部屋なのである。
その若い女が、朝早く、日本橋のとある銀行に出勤する。そのあとに壬生が行って、そうして七、八時間そこで仕事などをして、女が会社から帰って来る前に退出する。
倫ならぬ恋とか何とかそんなものではない。
壬生がその女の母親と知己があって、そうして母親は、ある事情でその娘とわかれわかれになって、いまは北陸の方で暮らしているのである。
そうして、時たま壬生に手紙を寄こして、その娘の縁談について壬生の意見を求めたりなどして、壬生もその候補者の青年と逢い、『あれならいいお婿さんでしょう、賛成です』なんてひとかどの苦労人の言いそうなことを書いて送ってやったこともあった。
しかし、いまではその母親よりも娘のほうが余計に自身を信頼しているように、どうもそうらしく壬生には思われてきたのであった。
「なおちゃん。こないだ、キミの未来の旦那だんなさんに逢ったよ」
「そう? どうでした? 少し、キザね。そうでしょう?」
「まあ、でも、あんなところさ。そりゃもう、ボクにくらべたら、どんな男でも、あほらしく見えるんだからね。我慢しなさいよ」壬生は鼻から息を吹き出すようなごう慢さで言った。
「そりゃ、そうね」桜庭奈保子は、その青年とあっさり結婚する気でいるようであった。
二
先夜、壬生は大酒を飲んだ。まあ、大酒を飲むのは、毎夜のことであって、特段珍らしいことではないけれど、その日、仕事場からの帰りに、G駅のところで久し振りの友人と逢い、さっそく壬生の馴染みの酒場に案内して大いに飲み、そろそろ酒が苦痛になりかけてきたときに、雑誌社の編集者が『たぶんここだろうと思った』と言って、ウイスキー持参であらわれ、その編集者の相手をして、またそのウイスキーを一本飲みつくして、(こりゃもう吐くのではなかろうか、どうなるのだろう…)と自分ながら、そら怖ろしくなってきて、(さすがにもう、この辺で止そう…)と思っても、今度は友人が『席をあらためてボクにこれからおごらせてくれ』と言い出し、電車に乗って、その友人の馴染みの小料理屋に引っぱっていかれ、そこでまた日本酒を飲み、やっとその友人、編集者の両人と別れたときには、壬生はもう、歩けないくらいに酔っていた。やっとのおもいで、壬生は仕事部屋にたどり着くと、
「とめてくれ。うちまで歩いて行けそうもないんだ。このままで、寝ちまうからね。たのむよ」
壬生は焦点の合わない目を奈保子に向けると、こたつに足をつっこみ、背広も脱がずに寝た。
三
夜中に、ふと眼がさめた。真っ暗である。
数秒間、壬生は自分の家で寝ているような気がしていた。足を少し動かして、自分が背広を着ているままで寝ているのに気づいて、はっとした。しまった! 壬生は唸った。
「お寒くありません?」奈保子が暗闇の中で言った。壬生と直角に、こたつに足を突っ込んで寝ているようである。
「いや、寒くない」壬生は上半身を起して、
「トイレに行ってくる」と言うと立上って電燈の紐を引いた。
点かない。
「電球が切れちゃったの」と奈保子が小声で言った。
壬生は手さぐりで、そろそろと窓に近づいて行き、奈保子の身体に躓つまずいた。それでも奈保子はじっとしていた。
「すまん…」壬生はひとりごとのように呟き、やっと窓のカーテンに触って、それを排して窓を少し開け、寝静まった街を眺めた。
「なになさっていらっしやるの?トイレは?」
「なんか、したくなくなっちゃったよ」壬生はまた以前のとおりに身体を横たえながら言う。
「なおちゃんの机の上に、オウ・ヘンリーの賢者の贈り物という本があったね」
「…」
「あの夫婦は出来すぎていやしないかい?家(ウチ)なんて望むべくもないや…」
「あら、奥さんのことあんまりわるく言うもんじやありませんわ。ねえ、お酒、お飲みになるんだったら、ありますわ」覚めかかっていたし、壬生は飲みたかった。しかし、(飲んだら、あぶない…)と思った。
「…ところで、ボクは強がっているが、元来が臆病なんだからね。暗いと、怖くて駄目だめなんだ。蝋燭がないかね。蝋燭をつけてくれたら、飲んでもいい」
「…」奈保子は黙って起き上がった。そうして、蝋燭に火が点ぜられた。壬生は、ほっとした。(もうこれで今夜は、何事もしでかさずにすむ…)と思った。
「どこへ置きましょう」
「燭台は高きに置け、とバイブルに在るから、高いところがいい。その本箱の上へどうだろう」
「ふふふ…お酒はコップで?」
「深夜の酒は、コップに注げ、とバイブルにある」壬生は嘘を言った。
奈保子は、にやにや笑いながら、大きいコップにお酒をなみなみと注いで持ってきた。壬生はそれを取り上げると一気に煽った。
「おいしそうに、お飲みになるのね」
「…ところで、なおちゃん、どうしてそんな格好してるの?」蝋燭の火が照らす奈保子は白いブラウスにひざ丈の下半身のかたちが露わになるようなスカートを着けていて、スカートから伸びる長い脛はごく薄い茶色のストッキングに包まれているように見える。
「いつもかい?」
「まさか…たまたまなんですの」奈保子が薄く笑う。
「たまたま…」
「そう、たまたまなんですの。…そんなこともういいじゃありませんか。まだ、もう一ぱいぶんくらい、ございますわ」
「いや、これだけでいい」壬生はコップを受け取って、ぐいぐい飲んで、飲み干し、仰向けに寝た。
「さあ、もう一眠りだ。なおちゃんも、おやすみ」
奈保子も仰向けに壬生と直角に寝て、そうしてまつげの長い大きい眼を、しきりにパチパチさせて眠りそうもない。
壬生は黙って本箱の上の、蝋燭の焔を見た。焔は生き物のように伸びたり縮んだりして動いている。
見ているうちに、壬生は、ふと、あることに思いいたり、恐怖した。
「この蝋燭は短いね。もうすぐ、なくなるよ。もっと長い蝋燭がないのかね」
「それだけですの」
壬生は黙った。天に祈りたい気持ちであった。あの蝋燭が尽きないうちに自身が眠るか、またはコップ一杯の酔いが覚めてしまうか、どちらかでないと、奈保子が危ない。焔はちろちろ燃えて、すこしずつ、すこしずつ短かくなってゆくけれども、壬生は少しも眠くならず、またコップ酒の酔いもさめるどころか、五体を熱くして、壬生を大胆にするばかりなのである。
はぁ…、思わず、壬生は溜息をもらした。
「靴下をおぬぎになったら?」
「どうして?」
「そのほうが、あたたかいわよ」
壬生は言われるままに靴下を脱いだ。奈保子のストッキングに包まれた脚先が自身の足先に触れた。
(これはもういけない…蝋燭が消えたら、それまでだ!…)壬生は覚悟しかけた。焔は暗くなり、それから身悶えするように左右に動いて、一瞬大きく、明るくなり、それから、じじと音を立てて、みるみる小さくいじけていって消えた。
…
しらじらと夜が明けていたのである。
部屋は薄明るく、もはや、暗闇ではなかったのである。壬生は起きて、帰る身支度をした。
―おわり―