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【連載小説#41】(六回目)

(これまでのあらすじ)
 喫茶店【トロント】で“財務コンサルタント”の壬生七郎から酒場に誘われたシングルマザーの桜庭奈保子にとって歯牙にもかけなかった壬生が気になる存在になってゆく。
 やがて、離婚経験のあるふたりは引き寄せ合うようになる。ごく自然に…

(前回のエンディング)
「武美さん…」翌朝の食事の支度をしている奈保子の横に立った武美に尋ねた。
「なに…?」
「女のひとがいるんじゃない?」
「…どうしたの?急に…」
「見たの…女のひとからのメモを…」
「メモ…?キミ、ずいぶんと趣味が悪いね」こともなげに表情も変えずに武美が言った。
「ねえ、どうなの…?いるの?」
「いるよ」武美が奈保子をまっすぐ見た。
「わたしが妊娠しているというのに…あなたってひとは…」
「キミのおなかの子だってボクの子だかどうだか…?」武美はそう言いながら居間に消えていった。
「…」奈保子は握っていた包丁を居間に向かって投げつけた。)

「ずいぶんとご熱心で…」その声に壬生は顔を向けた。

「中学生ですよ」初老の男はそのピッチャーに視線を向けたまま言った。

「ずいぶんといい球放るな…」

「ええ。ほら…」一塁側のベンチの金網の向こうで腕組みをした短髪でジャージー姿の男に傍らの男は視線を向けた。

「…」

「なかなかなもんですよ。ところで、経験者ですか?」

「いや、その、子どもの時分はよくやってましたから」

「そうですか。孫みたいな子どもがやってるのを見るのはいいものですよ…無責任なだけに。それじゃ」男は背を向けた。

「…」壬生はピッチャーに向けた視線を逸らさずにいた。

『キャッチボールしたがっているのよ、魚彦が…あなたと』

「無理な相談だ」奈保子の言葉に壬生は眉根を寄せた。

『そう言うと思ったわ』

「…」

『会いたいの』

「最初からそう言ったらいいんだ。子どもをだしに使われるのは不愉快だ」

『だし、だなんて…ひどいわ。そんなつもりは…』

「…すまん、言いすぎた。オレも会いたい」奈保子の声に怒気が滲んだことが厄介に思われた。

『明日、【トロント】でお昼でもどう?』

「わかった。一時に待ち合わせよう」壬生から電話を切った。

「どうしてそんなに頑(かたくな)なのよ」

「特別な理由はないよ。子どもが苦手なんだ…」壬生は店の外に視線をやった。

「そうなの…」

「観に行くのは良い」

「みに…?プロ野球?」

「いや、実業団の試合だよ」

「実業団?」

「そう。都市対抗野球のこと。きみの会社が出るじゃない」

「そうね。やたら盛り上がってるわ」

「そうか…」

「いいわ。総務のほうに聞いてみるわ」

「よろしく」壬生は煙草を灰皿に押しつけると、伝票を持って立ち上がった。

 あっ、奈保子が急な階段に手をついた。

「かあさん!」先をゆく魚彦が振り向く。

「どうした?」

「あら、いやだ。かかとが…」

 壬生が奈保子の足元をのぞき込んだ。ハイヒールが浮いている。

「こまったわ」壬生に向いた奈保子はパンプスを脱ぐと手にしたそれを顔の前でひらひらと振った。

「どうしてそんな靴で…」

「えい!」それに応えずにパンプスからヒールを引き剥がした奈保子が続ける。

「こんな階段だなんて、知らなかったし、ぺったん靴じゃおばさんみたいじゃない?足元がおしゃれなほうが良いと思って…」

「あ、そう…」

「かあさん、早く!」

 魚彦の声に二人は顔を向けた。

「ずいぶん急なのね」

 膝の上に広げた弁当を片付けながら奈保子が少し腰を浮かせた。

「そうだな。ずっとグラウンドにいたオレだから、こうして試合を見たことなんてないからね。―こんなふうなんだ…なんて思っている」壬生にとって、ここでの最後の試合となった対戦相手であった生命保険会社の応援席は球場の最も高い場所にあった。

(見て…)身体を乗り出すようにして球の動きを熱心に追っている二人に挟まれた魚彦の様子を奈保子が視線で壬生に話しかける。壬生が表情を崩して応える。

「すごい!」保険会社側の応援団の歓声に奈保子が思わず声を上げる。

「…」魚彦はグラウンドを見つめたまま驚きの表情を浮かべたり、身体を大きく動かしたりしている。

「帰ろうか…」奈保子の声に魚彦は名残り惜しそうにうなずいた。

―つづく―

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