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短編小説#21

(第21話)

「受け入れる側が煮え切らんのです」壬生七郎は机の両脇に堆く積まれた書類のあいだから顔を突き出すようにして入省二年目のキャリア官僚の話を聞いている。

「鈴木さん、だってそのあたりの話は市と整理組合に伏線を引かせておいたってことで話が済んでいるのでは…」壬生は鼻梁に掛かった丸い眼鏡を外すと目頭の間を親指と人差し指でつまんだ。

「そうだったんです。整理組合の理事たちがそのまま受け皿の商店会の理事になるって話だったのが、彼ら、ここにきて尻込みを始めまして」鈴木は忌々しげに口元を歪めた。

「また、どうして?」

「わかりません。はっきりとは…」

「ということは、何か心あたりくらいは…」壬生が身を乗り出したそのとき、書類の山が崩れた。

 鈴木はとっさに身を引いてそれを避けると、こともなげに続けた。

「どうやら整理組合の仮換地手続きのときに問題があったらしくて、連中、腰が引けているらしいです」

―あ、やっぱり…壬生の感心が急速に薄れてゆく。

「鈴木さん、とにかく乗りかかった話です。面倒かけますが、引き続きお願いします」

「承知しました」鈴木は頷くと自身の席に戻っていった。


 古参のノンキャリア係長の壬生は今日もあまた並んだ決裁欄の発議者から数えて近い欄に印鑑を押している。

 彼は毎日の決まりきった事案に決裁を行うだけの仕事にやりがいを見い出だせずに無気力な日常を送っていた。

 いわゆる補佐行政といわれる官僚仕事の醍醐味はノンキャリアの彼にとって縁のない味だった。

 さらに無気力に拍車をかけたのは、まもなく訪れる人事異動では自身が閑職にやられることが役所の人事慣行からして確からしいことである。

 窓辺に立った彼はシャツのポケットから煙草を取り出すと吸い口を指先で潰してくわえた。

 窓の外の未だ消えない向かいの別の役所の建物の窓明かりに虚ろな目を向けた。

―無用なプライドか、壬生はつぶやきながら書類の山に目を戻した。


 いつもはひと月ほどで届く健診結果が十日足らずで壬生の元に届いた。

 いぶかしみながら封を開けると、そこには早期に医者の診察を受ける必要があることが記載されていた。

 検査の結果、胃癌であることが判明した。

 命に限りがあることへの知識はあったが、不意に訪れた死への不安から自身のこれまでの人生の意味を見失った彼の仕事への気力は完全に失せ、その不安を紛らわそうと夜の街をさまようようになり、これまで縁のなかったキャバレーに足繁く通うようになると、あるホステスに入れあげた。その挙げ句に職場を無断欠勤、遅刻をするようになった。上長の穏やかな諌めにも、あからさまに耳を貸さない態度を示し、組織の秩序を見出した。病気のことは家族にも口外せず、家族からも白い目で見られるようになった。


 そんな放蕩にも虚しさを覚え始めたころに、壬生はそのホステスと懇意になった。

「食事でもしないか」

「いいけど」壬生の誘いに意外なほど簡単に女が乗った。

「同伴料金がかかるのだったらごめんだよ」

「そんなのじゃないよ」女の瞳の中に誠実を見た。

―刹那をこの女と過ごしたい、余命いくばくもないことを悟っている壬生は心からそう思った。


「鈴木さん」稟議書と格闘する鈴木に声をかけた。

「この前の話、もう少し聞かせもらえませんか」

「この前って…」

「例の事業のことですよ」

 ●●●庁が推進する事業とは、商店街の活性化を通じて、街の変化に戸惑う古くからの住民と地域に不慣れな新しい住民とがつながりを持てる街づくりを支援することである。

「…あの、もう少しあとでもいいでしょうか」鈴木の目が泳いだ。

「キミ、ボクはキミの上司なんだよ」壬生が声を荒げた。

 そんなことは始めてのことだった。自身でも意外だった。その翌日、壬生は役所を辞めた。


 待ち合わせたのは、壬生が役人時代に使っていた【志乃】だった。

「みぶさん、なつかしいわ」襖を開けた女将が大仰に科(しな)をつくった。

「ずいぶんとご無沙汰してしまった」壬生がおおかた白くなった頭に手をやった。

「みぶさん、ずいぶん痩せたんじゃない」女将が心配そうに壬生を覗き込むようにした。

「歳だよ、もうじき還暦だ。枯れたんだ」

「それならいいけど…でも、まだ枯れる歳じゃないでしょ」女将の表情は晴れない。

その時、おつれさまお見えです、という女給の声とともに襖が開き、奈保子が姿を見せた。

「ごめん、仕事が終わらなくて」スーツ姿の奈保子は掘り炬燵に脚を降ろした。

「お飲みもの、お持ちしましょうか?」女将が壬生に興味深げな視線を向ける。

「ビール」指を二本立てた。

「かしこまりました」女将が部屋を出ていったのを確かめると壬生が切り出した。

「仕事って?」壬生には目の前にいるホステスが口にする仕事という言葉に違和感を覚えた。(ホステスはホステスだろう…)

「事務仕事よ、こうみえても昼間はちゃんとした仕事しているのよ」

「ちゃんとした仕事…そっちが本業か」

「どっちが本業なんてない。食べていかなくちゃならないから…」その時、女給がビールを運んできた。奈保子が口をつぐんだ。


「こうして見るとずいぶん若いんだな」薄い化粧が奈保子を若く見せた。

「三十二って若くないでしよ」目を瞬かせると笑った。

「若いさ、ボクとふたまわり違う。キミのお父さんと大して違わないだろう」

―店ではないどこかで会っている、壬生は奈保子を見つめた。

「そんなに見つめて、みぶさん、ヘンなこと考えているでしょう」そう言う奈保子の表情に本意ではないことが透けて見えた。

「どこかで会っているような気がするが…」壬生は腕を組むと目を閉じた。

「…これ以上、黙っているのも心ぐるしいから白状します」奈保子は猪口に口をつけた。

「あなたは壬生七郎さん。今日、●●●庁を辞めました。長いあいだおつれさまでした」奈保子は壬生をまっすぐに見つめた。

「キミ…」

「わたしは総務の桜庭奈保子です」

「…」-どおりで、壬生には継ぐ言葉が見つからなかった。「驚いたでしょう」奈保子は赤い舌先を出した。


「わたしあの店、やめることにしたの」

「どうして(もう、会えなくなるのか)…」

「…うん、夜の仕事ってお金になるけどその必要がなくなったの。これからはもっと楽しく生きたい」奈保子の奔放であっけらかんとした生きる姿勢に壬生は惹かれた。

「で、どうするの」

「まだ決まってない。で、壬生さんこそ、どうするの」

「まだ、決まってない。どうしてキミは夜まで仕事しなきゃならならなかったの」

「それはね…」奈保子が話し始めた。


 奈保子が役所に勤め始めて五年が過ぎた頃、母親が倒れた。

 母親と障害を持つ六つ歳下の弟の世話を看ることになった。

 失せた母親の分の稼ぎを奈保子が補わなければならなくなって、ホステスを始めるようになったのである。

「母が死んだの。おととい葬儀も終わった。だから」

「…ホステスをやめる」壬生が言葉を継いだ。

「弟さんが心配だな」

「ええ、でもわたしがいるから大丈夫」

「そういうものか」

「そうよ」

(強いな、オレにもまだできることがある。)壬生は気づかされた。壬生は目の前の杯を空けた。


(受け入れる側が煮え切らんのです)少し前までの部下だった鈴木の言葉を思い出した。

(オレが引き受ける)そう決心した壬生は役所に電話を入れた。

 交換を通してしばらく待たされた後、鈴木が出た。「壬生だけど」

「係長ですか」

「いまはそうじゃない。みぶと呼んでください」

「みぶさん…ですか、なんかやりづらいな。今日のところは係長で勘弁してください」

「わかりました。それで話というのはね、例の事業のことで…」壬生が話を続けた。

「相変わらずです。腰が引けたままで…」電話の向こうの鈴木の苦い表情が壬生の目に浮かんだ。

「正直なところムリじゃないかと思っています」

「役所仕事なんだからそういうわけにいかないでしょう」

「それはわかっているんですが…」

「ボクが引き受けるから、あなたから商店会にそう伝えてくれないか」

「…」あまりに唐突な壬生の申し入れに鈴木には返す言葉が見つからない。

「本気ですか」

「本気です」

「厄介らしいですよ、いいんですか。それでも」

「引き受けます」

「わかりました。私から話してみます」鈴木から電話を切った。


 ひと月ほどして、壬生が商店会の代表理事に収まった。

 壬生の以外の理事が自分たちの街づくり事業に無責任な態度を取ったのには理由があった。

 先立って行われたこの地域の区画整理事業で、▲▲▲市が、組合に大きなリスクを抱え込ませる内容のデベロッパー契約を組合に組織をあげて斡旋してきたことを理事会が鵜呑みにしてしまったことで、反対派の住民と、それを支援する活動家とがあいまって、整理事業に対する反対運動にまで発展した経緯があったからであった。


 地域のコミュニティー施設を作る過程で、壬生に対する嫌がらせが続いた。自宅に危険な薬品が届いたり、会合の帰りに暴行を受けて軽い怪我を負ったりした。商店会内部にあっては、地元の理事らの街づくりに対する態度は極めて消極的だったばかりか足を引っ張るような有り様だった。

(覚悟はしていたが…)病身の壬生にとって、事業の遂行は文字どおり命を削りながらの仕事であった。


 初めて二人で会って以来、奈保子と会うのはいつも【志乃】の二階の小部屋と決まっていた。

「みぶさん、大丈夫?」奈保子は顔を合わせるなり壬生の顔を覗き込むようにした。

「思った以上に厄介だよ。少し疲れているが、平気だ」壬生は健康に不安のないことを装ったが傍目から見ても壬生の衰弱は明らかだった。

「わたし、仕事やめちゃった」奈保子は猪口を舐めると言った。

「仕事って役所のことか。どうして…」

「そう…おもしろなくて」

「仕事なんてそういうものだろう」

「でもね、前も言ったじゃない、もっと楽しく生きたいって。楽したいってことじゃないよ、だから、やりたいことをして食べていけたらいいなと思ったの」

「世の中、そう思ったって、そんなに簡単にいくものじゃない」

「そうかもしれないね」奈保子は目を伏せた。

「でも、やらないで後悔したくないの」奈保子は壬生をまっすぐ見据えた。

「それで、そのやりたいことっていうのは」

「きっさてん」

「喫茶店?」

「そう、昔ながらの純喫茶。いま風のじゃなくて、ナポリタンとかピラフとかハムトーストなんかが食べられて、煙草が吸えて、若い人ばかりじゃなくて歳いった人やウチの弟のような障害のあるひとも集まれるようなそんなお店をやってみたいの」

「具体的な計画は?」

「まだ」

「お金は?」

「退職金と貯金を充てようとおもっています」

「お国の融資制度もあるから、よければそれも使ったらいい」

「そんな制度があるんですね」奈保子の視線は遠くにあった。

「みぶさん、お願いがあるんですけど」奈保子は視線を壬生に戻した。

「しばらくのあいだ、みぶさんの仕事のお手伝いをしたいんですけど」

「手伝い…それは無理だ。事態がどうなるかわからない」

「じゃ、組合員になる」

「本気か?」奈保子が頷いた。


「その施設、カフェにしたらどうですか?喫茶店じゃなくてカフェ。そしたら、わたしお手伝いする。マネージャーやる。料理もする。そして喫茶店の経営をおぼえる。そして時期が来たら自分のお店を持つ。これがわたしの計画。最初のお客さんはみぶさん。招待するわ。必ずきてくれるよね。約束だよ」奈保子の目の周りが薄く桃色に染まっている。

「カフェっていうのはいい案だ。理事会にかけてみるよ。招待か、必ずゆくよ。キミがつくったナポリタンか…食べてみたいな。(…キミに惚れたようだ、立場?があるから口に出せないが…)少し酔ったようだ。少しのあいだ横にならせてくれ」壬生はその場で上半身を倒した。

「みぶさん、大丈夫?足出して横になったほうがいいよ」奈保子の表情が強張った。

「いや、このままでいい…迷惑でなかったら、きみのひざを貸して欲しい」

「ひざ…」しばらくして奈保子が合点したように頷いた。

 壬生の踵が奈保子の膝に乗った。壬生の冷えた足先を奈保子は指でさすった。


「よそ者のあんたじゃわからないんだよ。こっちの立場が」パイプ椅子に背中を保たせたまま腕を組んだ理事のひとりが声を上げた。

「とはいえ、このままじゃ間に合わない」議長席の壬生がハンカチで額を拭った。

「間に合わないったって、こっちはかまわねぇや、困るのはあんたと建築屋じゃねぇの」今度は別の理事が声を上げた。

「期日がある。そりゃ私ばかりではない。建設会社も、施設の完成を待っている地元の人たちだって困る」壬生が男を睨む。

「理事長さん、とぼけちゃいかん」男は周りを見渡すと続けた。

「こういうことは、はっきりさせないといかん。あんたが建築屋とできてるって話が聞こえてくるんだよ」男が得意満面で言った。

「…あなたが何を言いたいのかわからない」

「業者選びでカネがあんたに動いたって話だよ。なあ」男がもう一度周りを見渡すと、何人かが頷いた。

「そんなことは断じてない。適正な手続きを経た入札で業者を決めたのはあなたもわかっているはずだ」壬生が青白い顔を紅潮させた。

「ああ、確かにな。そこまでは百歩譲るとしよう」男が不敵に笑う。

「そこからが問題だ」誰もが男の次の言葉を待つようにその場が静まった。

「理事長さん、札を落とした建築屋からお礼だと言われてこれを受け取っちゃいないか」男が親指と人差し指でまるを作った。

「あなたがなんと言おうと断じてそんなことはない」壬生が丸まった背筋を伸ばした。

「あなたは私を貶めてどうしたいというのだ。そんなことをして何になるというのだ」壬生は立ち上がると男を指差した。

「…」男は返す言葉を失った。

「そうだ!」女の声が響いた。その声は叫び声に近かった。

「言いがかりです!どこに証拠があるというの。あるなら、今、ここで見せなさいよ」

(奈保子…)

「な、なんだ。あんた一体誰だ…」

「わたし?わたしは組合員の桜庭奈保子です。そんなことはどうでもいいから、証拠みせたらどうなのよ、さあ」

「聞いた話だから、証拠と言われても…」それきり黙った男に奈保子が追い打ちをかける。

「壬生さんはこの街づくり事業に命をかけているのよ、それなのに、あなたたち地元の人間がへっぴり腰なうえ、なんとかこの街に活気を取り戻そうと頑張っているひとの足引っ張るようなことして男として恥ずかしくないの!」奈保子の声が震えている。

「キミ、慎みなさい」壬生がたしなめた。

「すみません、でも、あまりに悔しくて…」奈保子は椅子に腰を降ろすと顔を覆った。

 誰かの小さな拍手が起こった。拍手が拍手を生んだ。

 理事の二人は顔を合わせるとその場を去った。


 それから三月あまりが経ち、壬生は死んだ。


 夏祭りを間近にして街にはどことなく華やいだ空気が満ちていた。

 街の駅前には高層マンションが三棟建ち、建設中のものが一棟いままさに建ち上がろうとしていた。

 カフェは歳のいった古くからの住民と若い親子連れの住民とで一杯だった。客同士の交流の架け橋の役割も担うかのように奈保子は忙しく立ち働いた。

 二十年近くもお宮入したままの神輿が山車とともに街を練り歩くことになった。カフェで交わされる話題のほとんどが祭りの話題だった。

「あんた、担(かつ)ぐんだって」老いた客が奈保子に声をかけた。

「あら、だれからそんなことを」奈保子が尋ねると、老人が座ったまま上半身だけを後ろの若い夫婦連れの客に向けて指を指した。女が振り向いた。

「まあ、○○○さんたら。きれいな女のひとだからって…」

「こんなべっぴんさんとだったら、ワシも担いだみたいもんだ」老人は歯のない口を開けて笑った。

「おじいちゃん、いっしょに担いでみようよ。並んでついてあげる」奈保子は老人を見つめた。

「冗談だ、冗談」老人は笑いながら顔の前で自身の手を振った。


 夏の盛りの街に拡声器を通じて響く祭り囃子に混じって子どもたちの歓声が響いていた。


 街を見下ろす場所に壬生の墓はあった。

 春の陽の溜まった墓は清められ、多くの花が手向けられている。

 奈保子は墓には似つかわしくないバラを手向けると片膝をつくようにして手を合わせ、長いあいだ目を閉じた。

(お店もったんだ。みぶさんが食べたいっていってたナポリタンも上手につくれるようになったんだよ。約束守れなくなっちゃったね。ウソつき)

(でも、わたしも約束守れなかった。仕事がうまくいってからなんて、もったいつけたつけたようなこといって…ごめんなさい)

(いのちの残りが少ないことわかっていたのなら、どうして教えてくれなかったの?ずるいよ)


 奈保子は立ち上がると見下ろす街の果てにある二人の思い出の街を想った。

―完―


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