短編小説#31
一
「なんとかならないの?わたしA航空のCAなのよ」隣のカウンターで女が忌々しげな口調で係員に食ってかかっている。
(あっ…)
男は列を離れて、彼女の足元に落ちたパスポートを拾い上げると差し出した。
「あなたのかな?」彼から取り上げるように手にしたパスポートを確かめる彼女の固い表情が緩んでゆく。
「ありがとう!」彼の手を取った彼女は抱きつかんばかりの勢いで謝意を表した。
微かに異国の抑揚を感じさせる話し言葉に男の感情が揺れた。
二人の視線が合った。
(そっくりだ…)
「キミ…」
「どうしたの…」見開いた彼女の心もち内側に寄った瞳に怪しげな愛くるしさと同時にある想いを男は抱いた。
「いや…」
「お礼がしたいわ。今日の夜、うちの会社がやっているホテルで食事でもいかかですか」
「…キミって初めて会った男を誘うの」
「あら、ごめんなさい。ご迷惑かしら」
「そういうわけではないが…」
「それじゃ、8時にAホテルのロビーで待ち合わせましょうね」彼女はそう言うと、出国手続きを済ませて空港ロビーを足早に後にしていった。
…
「わたし、明日の朝、ここの部屋からK(国)にフライトなの。待っている人がいないんだったらあなたもここから仕事にいったらいいじゃない」桜庭奈保子はうるんだ瞳を向けた。
「…キミって初めて会った男を誘うの」
「それ、さっきと同じセリフ。アハハ」奈保子の屈託のない笑い声が響いた。
(気が違っているのか、この女…)
「こういう仕事しているからかどうかわからないけど…はっきりいうと男の人が欲しくなるのよ」そう言った奈保子の瞳には挑むような光が宿っていた。
「オレは変態なんだよ。それでもいいのかい…」
「ヘンタイ?どんな…」
「縛って不自由にさせて…」性を自由奔放に話す奈保子に戸惑った壬生は思いついたことを口に出した。
「要はSってことよね」
「あっ、ああ…」壬生は言いよどんだ。
「いいわよ。刺激が欲しいのよ。早く部屋にいこ」奈保子は席を立つと勘定書きを手にしてカウンターに向かって歩き出した。
…
「どうしたの?縛ってするっていったじゃない」
「口からでまかせだよ」
「ネクタイよ。あなたのしていた…わたしのストッキングでもいいのよ」奈保子は起き上がるとベッドの足元に脱ぎ散らかした衣服の中から先刻まで自身が穿いていたストッキングを取り上げた。
「さあ」奈保子は両手を差し出した。
壬生は奈保子に言われるままにした。
「そう。それでいいの」奈保子は縛られた両手を頭の上に持ってゆくと身体をあお向けた。
白痴のもつ危うい色気のような奈保子に魅力に引きずり込まれてゆく自身に壬生は危うさを覚えた。
二
壬生保吉が心臓発作で死んだ。80をとうに超えていた。母親はすでに亡かった。男ばかりの七人兄弟の末っ子の七郎は最後まで保吉に寄り添った。葬儀、法要の段取りを任され、それがひと段落したところで遺品の整理に取りかかった。相続の手続きは弁護士に任せたが、生前の保吉の命にしたがって、遺品の整理は魚彦が行った。
(これは…)
手にしたセピア色に焼けた一枚の写真に七郎の目と感情が留まった。
(おんなだ…)
保吉の隣に写った若い女性の美しく愛くるしい容貌とその女性の保吉に寄り添う姿に七郎は本能的そのことを意識した。
背後の建物の屋上看板に写る文字がKのものだった。
(S(市)か…)
思い立った七郎は秘書に連絡を入れた。
…
壬生はKのSに出かけた。
客引きに誘われて、或る酒場に入った。
飲み終わって会計をするとその国のカネで5万円少々の請求書を出された。
手持ちの金は3万円がやっとだった。
『これでかんべんして欲しい』と謝ったが、歳のいったマネージャーは許さない。使い慣れないその国の言葉遣いに彼を日本人であると理解したのだろう。
「お前は日本人だろう。どう思っているんだ」良く響く流暢な日本語で話しかけてきた。いまどきの日本人以上に語尾が明瞭だった。
「どうって、なにを」
「おまえらのじいさんらが起こしたことだ」
「支配のことか…済まないことをしたと思っている」頭を下げた。
「どうしてお前が頭を下げる」
「日本人だからだ。それだけのこと」
「済まないと思うなら、言われるとおり払え」
「それとこれとは違う。持ち合わせがない」その時、「かんべんしてあげたら。なんならわたしがどうにかするから」と言ってくれたのが奈保子だった。
「キミ…」
「壬生さん…」奈保子が目を見開いた。
…
壬生は次の日、渡された紙片に書かれた住所を頼りに奈保子に残り金の半分を持って行った。
「正直なのね。別によかったのに、そのお金。日本人からそんなの受け取ったら、寝覚めが悪くてしょうがないわ。持って帰って」頑なに受け取ろうとしない奈保子に壬生は不本意ながらカネを胸ポケットに戻した。
「もう、二度とあんな店に行ったらダメよ」部屋の奥の誰かを気遣うように声を潜めた。
「明日、来て」
「この足で、日本に帰る」
「…そうなの…」
『×××』男の声がした。
「あのひと日本人嫌いなの。近いうちにそっち行くから、またしよう…」
「…とにかく受け取ってくれ」壬生は奈保子カネを強引に握らせると走り出した。
三
奈保子の祖父母は戦後、祖国に帰った。
父母は軌道に乗り始めた電気屋を畳むわけにもいかず残って商売を続けた。
他国の戦争の特需で景気に弾みがつき、庶民にも家電を手に入れることができるだけの金が世の中にまわるようになった。
そんな追い風に押されるように店は繁盛した。
金融機関の積極的な融資もあって店も増えた。
奈保子の父親は夜な夜な自宅に客を招き、派手に酒肴を振る舞った。それらの客の中に壬生保吉がいた。
「桜庭さん、性急はダメだよ。臆病なくらいでいい」彼の諫めに耳を貸すほどに桜庭は殊勝な心を持ちあわせていなかった。
桜庭は商品相場に手を出した。投機商品が暴落して財産を失った。損失を埋めようとして、筋の悪い先に金を無心して、別の商品にも手を広げ、更に損失を重ねて、弁済が滞るようになって、ついにはヤクザに追い込みをかけられて首を括った。
昼夜かまわず自宅に訪れるヤクザは狡猾な目を妻の久美子に向けた。
身の危険を感じた久美子は保吉を頼った。
保吉の助言で久美子は商売を投げ出た。
不動産は金貸しが処分した。
住む場所を失った久美子は奈保子を連れて祖国に逃げた。
…
祖国に戻った幼い奈保子は、その国の生活にも言葉にも素直に慣れた。
家では、久美子は一切、祖国の言葉を話さなかった。
ある朝、奈保子が突然切り出した。
「竜子ちゃんのいうことがよくわからないの」
「なんて?」
「奈保子の生まれた国のひとは悪者だって」
「…そうなの。だったら『そうなの?なら、そうね』ってにっこりしておいたらいいのよ」久美子の言葉に奈保子は腕組みをして首を傾げた。
「そうなの?どうしてかなぁ…でもおかあさんのいうとおりにする」奈保子はそう言いながら笑顔を作った。
四
「これを見てほしい」奈保子は手渡された写真を見つめた。
「このひと、おかあさんよ。今じゃ、あのとおりだけど。若いときは本当にきれいね。女優さんみたい」奈保子は写真を手にしたまま言った。
ベッドに横たわったまま失せた表情で長いこと壬生を見つめていた久美子のことを壬生は想っていた。
「キミに瓜二つだ」
「キミがでしょ」
「そうだね」
「明日、施設に行ったらこの写真みせてみようかしら」
「よしたほうがいい。おかあさんを混乱させるだけだ」
「そうね。わたし覚えている。このひと、こっちに来る度にオマケ付きのお菓子くれたの」窓の外に視線を向けた奈保子の横顔に西日が当たっている。
「東京の家にも来ていた…誰なの、このひと」
「父だ」
「あなたのおとうさん…何しに来てたんだろう」
「わからない」
「恋人かしら。この頃、おかあさん若かったし」
「まさか…」窓の下の子供達の嬌声が響いてくる。
「ねえ、なに黙っているの?」
「いや…」
「ねえ、おなかすいちゃった。なにか食べにいこう」奈保子は立ち上がると下着をつけはじめた。
…
「七郎さん」肩を叩かれた壬生はまどろみから覚めきらない瞳を声の主に向けた。
「…キミか」奈保子の輪郭がはっきりしてきた。
制帽に制服姿の奈保子の仕事姿に普段は感じることのない凛々しさを覚えた。
「ずいぶんと揺れるが大丈夫ですか」
「お客さま、ご安心ください。少し気流が乱れているようですが…」仕事の上での取ってつけたような話し方がむしろ新鮮に響いた。
「例のNの羽田沖の事故いや事件があったばかりだからね」
「それは他社のことですので…」二人は芝居がかったやり取りを楽しんだ。
「話しておきたいことがあるの」奈保子が声を潜めた。
「…」
「東京に着いてから…」
「わかった」
『スチュワーデスさん…』他の客の声に奈保子は顔を向けた。
「Aホテルでね。部屋、取ってあるから」奈保子は表情だけで、しばしの別れを伝えた。
壬生はシートに後ろ頭を押しつけると目を閉じた。
…
「『おうちの化粧箱の中…』それがおかあさんの最期の言葉だったの」ベッドの上に写真を並べる奈保子の声が震えていた。
(どうして…)
自身の幼い頃の写真を目のあたりにして壬生は事態をにわかには受け入れることができなかった。
生家の居間に掛けられた母親の遺影と奈保子の母親、つまり、久美子の顔を交互に思い出しながら事態を整理しようとした。
並べられた写真には久美子が写るものはない。
壬生と一緒に写るものもあり、微かに自身の記憶に残るものも幾枚かあった。
これらが久美子のもとにあったという事実は、もはや、自身の母親は久美子である、という現実をある種の観念を伴って受け入れざるを得ない心持ちになっていた。
「あなたみたいだけど」奈保子は壬生の目を覗き込んだ。
「確かにボクだ」
「どうして、わたしのおかあさんがあなたの写真を持っていたのかしら」
「…」
「普通に考えたら、あなたっておかあさんの子どもってことにならないかしら?」
「…そうばっかりじゃないさ。男の子のいないおかあさんのところにボクの写真を見せるために…」
「本気で言ってるの?おとうさんが死んで、まだ若いおかあさんがほかの男のひとと寝たって不思議はない」
「…」
「あなたのおかあさんって、あなたが生まれてからすぐになくなったって聞いているけど」
「ああ」
「だったら、あなたのおとうさんがわたしのおかあさんとくっつくこともあり得る話だよね」
「ああ」
「ねえ、もう会わないほうがいいみたい」
「えっ…」
「もう会わないほうがいいっていったの」
「いやだ!一緒になってくれ」
「あなた正気?」
「ああ、本気だ」
「ムリ、わたし歳下だめなの。歳上がいいの」奈保子がイタズラっぽく笑う。
「…」
「ねえ、みて。返すわ…」奈保子の広げた手のひらには五百円玉が乗っていた。
―完―
(数ヵ月後のこと)
奈保子は妊娠した。七郎はそのことを知らない。