【短編小説#39】
「あのね」桜庭奈保子が言葉を切った。
「…」
「若いときって結構、自信があるからすべてに強気なの。このひとがダメなら次にいくわ、みたいな…でも自分に自信が持てなくなったときから急にいまの相手を手放すのが惜しい、というか、怖くなるってことあるのよね…」奈保子が煮え切らない壬生七郎に食ってかかったのが事の始まりだった。
橋に差し掛かった。壬生はここで引き返そうと思った。奈保子は静かに橋を渡った。それでも壬生も渡った。彼女の後(あと)を追って、ここまで歩いて来なければいけなかった訳を、彼はあれこれと考えてみた。未練ではなかった。彼女の身体から離れた途端に、彼の情熱は空っぽになってしまったはずである。彼女が黙って帰り仕度を始めたとき、彼は煙草に火を点けた。自身の手が震えてもいないのに気がついて、彼はいっそう白々しい心地がした。そのまま放っておいても良かったのである。それでも彼は彼女と一緒に家を出た。
二人は土堤の細い道を、後になり、先になりしながらゆっくりと歩いた。初夏の夕暮れことである。はこべの花が道の両側に点々と白く咲いていた。世には、憎くてたまらない異性にでなければ関心を持てない不幸せな人たちがいる。(憎くてたまらないって?!)でも、壬生もそうであった。奈保子もそうであった。彼女は今日も郊外の彼の家を訪れて、彼の言葉の一つ一つに訳のわからない嘲笑を浴びせたのである。彼は彼女の執拗な侮蔑に対して、いまこそ腕力を用いようと決心した。(気の弱い彼の粋がりに過ぎないのは彼自身にはわかっていたが、)彼女もそれを察して身構えた。こういう切羽詰まった戦慄が、二人の歪められた愛欲を寧ろ(むしろ)煽り立てた。こうやって二人並んで歩いているが、お互いに妥協の許さぬ反発を感じていた。以前にも増した憎悪を…(憎悪って…?)
土堤の下には、二間ほどの広さの川がゆるゆると流れていた。壬生は薄闇のなかで鈍く光っている水の面(おもて)を見つめながら、また、引き返そうか知らん、と考えた。奈保子は、俯いたまま道を真っ直ぐに歩いていた。彼は彼女の後を追った。未練ではない。解決のためだ。いやな言葉だけれど、―後始末のためだ。彼は、やっと言い訳を見つけたのである。彼は彼女から十歩ばかり離れて歩きながら、手に入れたばかりの革靴を履いた足先を乱暴に振って道々の夏草を薙ぎ倒していた。―堪忍してくれ、と低く彼女に囁けば、解決がつきそうにも思われる。彼はそれも心得ていたが言えなかった。第一、時期が遅れている。こういうのは、その直後にこそ効果のある言葉らしい。二人が改めて対峙し直した今になっては、これを言い出すのは、いかにも愚かしくないか。もどかしい彼は足先で青蘆を一本薙ぎ倒した。
列車の轟きが、すぐ背後に聞えた。奈保子は振り向いた。壬生も急いで顔を後ろにねじ向けた。列車は川下の鉄橋を渡っていた。明かりを灯した客車が、次々と二人の目の前を通っていった。彼は、自身の背中に注がれている彼女の視線を痛いほど感じていた。列車は、もう通り過ぎてしまって、前方の森の蔭からその車両の響きが聞えるだけだった。彼は、ひと思いに正面に向き直った。もし彼女と視線がかち合ったなら、そのときには鼻で笑って、こう言ってやろう。―行き過ぎてゆく電車を見送るのって寂しいもんだね。けれども彼女は、すっかり遠くを足早に歩いていたのである。白い水玉を散らした仕立ておろしの水色のドレスの裾から覗くナチュラルカラーのストッキングに包まれたふくらはぎが夕日を透して彼の眼に染みた。―このまま、いっそのこと、結婚しようか。いや、本当は結婚できないのだが、後始末のためにそんな相談を仕掛けてみようと思うのである。突然、彼は走り出した。しかし、彼女に近づくにつれて、彼の決意がほぐれはじめた。彼女は小さく細い肩を少しいからせて、ちゃんとした足取りで歩いていた。彼は、彼女の二、三歩後ろまで走って来て、それからのろのろと歩いた。やはり、憎悪だけが感じられるのだ。(憎悪って…?)彼女の身体中から、我慢できない、いやな匂いが流れ出てくるように思われた。
二人は黙って歩き続けた。道の真ん中にひと群れの川柳が、ぽっかり浮かんだ。奈保子はその川柳の左側を歩いた。壬生は右側を選んだ。―逃げよう、解決も何も要らない、オレが奈保子の心に悪党として残ったとしたって、構わない。どうせ男はこういうものだ。(逃げちまおう)川柳のひと群れを通り越すと、二人は顔を合せずに、また寄り添って歩いた。たったひとこと言ってやろうか。オレは口外しないよ、と。壬生は片手で背広の煙草を探った。それとも、こう言ってやろうか。良い結婚をしなさい。すると、この女はなんと答えるのであろう。―馬鹿じゃない? と反問してくるに違いない。彼はマッチを擦った。彼女のうぶ毛の夕日に光る白い片頬が歪んだまま彼の鼻の先に浮かんだ。
とうとう、壬生は立ち止まった。奈保子も立ち止まった。お互いに顔を背けたまま、しばらく立ちつくしていたのである。彼は彼女が泣いてもいないらしいのを忌々しく思いながら、わざと気軽そうに辺りを見廻した。じき左側に彼の好んで散歩に来る水車小屋があった。水車は闇の中でゆっくりゆっくり回っていた。彼女は、くるっと彼に背を向けて、また歩きだした。彼は煙草をくゆらしながら踏み留まった。呼び止めようとしないのだ。(そう、呼び止めはしないのだ。)
「オレと結婚してくれ!」壬生の声に奈保子の歩みが止まった。
「…」彼女が振り返った。
「どうして!?」そう声を上げた彼女の姿が小動物のように彼の眼に映った。
「うん。それも悪くない!」(ひょっとしたら、本当のドロドロした恋心なんて、年くってから出てくるのか…)
―終―