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【短編小説#36】

 壬生七郎は、神崎武美の友人である。壬生のほうが神崎より十一も年上なのであるが、それでも友人である。壬生は、今、東京のとある家電メーカーに勤めているのであるが、仕事ぶりはあまり芳しくないようである。いまにクビになるかも知れない。「少し、うまく立ち回ってはしたらどうか」と神崎は言いにくい忠告をしたこともあったが、その時、壬生は腕組みをして頸垂れ(うなだれ)、「もうこうなれば、小説家になるより他はない」と低い声で呟いたので、神崎は苦笑した。学問の嫌いな頭の悪い人間だけが小説家になるものだと思い込んでいるらしい。それは、ともかくとして、壬生はこの頃、いよいよ本気に―小説家になるより他はない、と覚悟を固めてきた様子である。どうしたって、うまく立ち回れることができないことが日、一日と確定的になってきたのかもしれない。―もうこうなれば、小説家になるより他はない、と今は冗談でなく腹を決めたせいか、この頃の壬生の日常生活は実に悠々たるものである。かれは最早、五十五歳のはずであるが、その根岸の借り上げの古い平屋において、物思いに耽って(ふけって)いるのが常で、時々、背広を着て旅に出る。鞄には原稿用紙とペン、インク、聖書、辞典その他が入れられている。温泉宿の一室で床柱を背負って泰然と収まり、机の上には原稿用紙を広げ、もの憂げに煙草のけむりの行末を眺め、長髪を掻き上げて、軽く咳ばらいするところなど、すでに文人の風情がある。けれども、その無駄なポーズにも、すぐ疲れてくる様子で、立ち上って散歩に出かける。

 ところで、今年の五月の旅行には、変な土産があった。壬生が「結婚したい」と言い出したのである。「伊豆でいいひとを見つけてきた」というのであった。「そうかね」神崎は、詳しく聞きたくもなかった。神崎は、他人の恋愛談を聞くことは好きでない。恋愛談には、必ず、どこかに言い繕いがあるからである。神崎が気乗りのしない生返事をしていたのだが、壬生はそれにはお構いなしに、彼の見つけてきたという、そのいいひとについて澱みなく語った。割に嘘のない、素直な語り口だったので、神崎も、おしまいまで、そんなにイライラせずに聞くことができた。

 壬生が伊豆に出かけて行ったのは、五月上旬の夜で、その夜は宿でビールを一本飲んで寝て、翌朝は宿のひとに早く起こしてもらって宿を出た。多少、眠そうな顔をしているが、それでもどこかに、ひとかどの文士の構えを示して、夏草を踏み分け、河原へ向った。草の露が冷たくて気持ちがいい。土堤に登る。ぼたんが咲いている。ひめゆりが咲いている。ふと前方を見ると、白いワンピースを着た若い女が、これもまた白い長い両脚を膝よりももっと上まで露わにして、素足で青草を踏んで歩いている。―ああ、きれいだ、女は十メートルと離れていない。

「やあ!」壬生は無邪気である。思わず歓声を上げて、しかも、その透きとおるような柔い脚を確実に指さしてしまった。令嬢はそんなにも驚かない。少し笑いながら裾をおろした。これは日課の朝の散歩なのかも知れない。壬生は、自身の、指さした右手の処置に少し困った。初対面の女の脚を、指さしたりして、―失礼であった、と後悔した。「だめですよ、そんな…」と意味のはっきりしない言葉を非難の口調で呟いて、さっと女の傍(かたわら)をすり抜けて、後を振り向かずに急いで歩いた。少し躓つまずくと、今度は、ゆっくり歩いた。

 河原へ降りた。幹がひと抱え以上もある柳の木かげに腰をおろした。対岸にはあじさいが咲いている。竹藪の中で、赤く咲いているのは夾竹桃(きょうちくとう)のようである。彼は眠くなって来た。

「旅行ですか?」女の声である。もの憂げに壬生が振り向くと、先刻の女が釣竿を担いで立っている。

「え、ええ…」
「そうですか…、釣りはされないのかしら…?」女は笑った。三十歳にはなるまい。歯が綺麗だ。眼も綺麗だ。喉は白く細く頼りなげで、なんとも儚い(はかない)。
 女は釣竿を肩から下ろして、
「きょうは解禁の日ですから、子供にでもわけなく釣れるのですけど…」
「そうかね…」壬生は立ち上がると煙草をふかした。壬生はその女を―問題にしていない、という澄ました顔で、悠然と煙草のけむりを吐いて、そうして周りを眺めている。

「釣ってみません…?」女は壬生に自身の釣竿を手渡した。壬生は、どういうわけか、恥をかかされたと思った。ごろりと仰向けに河原に寝ころんだ。
「釣りはどうにもいけなくてね…」壬生は背中を向けた。
「あたしの針を一つあげましょう」女は道具袋から小さい紙包をつまみ出して、壬生の傍にしゃがみ、釣針の仕掛けに取りかかった。壬生は寝ころび、雲を眺めている。

「この蚊針(かばり)はね…」と女は金色の小さい蚊針を壬生の釣糸に結びつけてやりながら呟く。
「この蚊針はね、おそめという名前です。いい蚊針には、いちいち名前があるのよ。これは、おそめ。可愛いでしょう?」

「そうですか、ありがとう」壬生は野暮(やぼ)である。―なにが、おそめだ。おせっかいは、もうやめて、早く向うへ行ってくれたらいい。気まぐれのご親切は、ありがた迷惑だ、女に気づかれないように壬生は顔をしかめた。

「さあ、できました。こんどは釣れますよ。ここは、とても釣れるところなのです。あたしは、いつも、あの岩の上で釣っているの」

「あなたは…」壬生は起き上って訊いた。「東京の人ですか?」

「あら、どうして?」

「いや、ただ…」壬生は狼狽した。顔が赤くなった。

「あたしは、この土地のものよ」女の顔も少し赤くなった。うつむいて、くすくす笑いながら岩のほうへ歩いて行った。

 壬生は釣竿を手に取って、再び静かに釣糸を垂れ、四季の風物を眺めた。じゃぼんという大きな音がした。たしかに、じゃぼんという音であった。見ると、女は見事に岩から落ちている。胸まで水に浸かっている。釣竿を固く握って、「あら、あら」と言いながら岸に這上ってきた。まさしく濡れ鼠である。白いワンピースが両脚にぴったり吸いついている。

 壬生は笑った。実に愉快そうに笑った。―ざまを見ろ、という小気味のいい感じだけで、同情の心は起らなかったが、ふと笑いを引っ込めて、叫んだ。

「血が!」

 女の胸を指さした。今朝は脚を、今度は胸を指さした。女の白いワンピースの胸のあたりに血が、ばらの花くらいの大きさで滲んでいる。

 女は自分の胸を俯いて(うつむいて)、ちらと見て、

「桑の実よ」と平気な顔をして言った。「胸のポケットに桑の実をいれておいたのよ。あとで食べようと思っていたから、損をした」

岩から滑り落ちる時に、その桑の実が押し潰されたのであろう。壬生は再び、―恥をかかされた、と思った。

 女は「見ては、いやよ」と言い残して川岸の山吹の茂みの中に姿を消して、それっきり、翌日も翌々日も河原へ出ては来なかった。壬生だけは、相変わらず、悠々と、あの柳の木の下で、釣糸を垂れ、四季の風物を眺め楽しんでいる。―あの女と、また逢いたい、とも思っていない様子である。壬生はそんなに好色な青年ではない。

 三日間、四季の風物を眺め楽しみ、二匹の鮎を釣り上げた。【おそめ】という蚊針のおかげと思うより他はない。釣り上げた鮎は柳の葉ほどの大きさであった。これは、宿でフライにしてもらって食べたそうだが、浮かぬ気持ちだったそうだ。四日目に帰京したのであるが、その朝、土産の鮎を買いに宿を出たら、あの女に逢ったという。女は、今度は、黄色いワンピースを着て自転車に乗っていた。過日とは違って、女の装いに上品さが備わっているように壬生の目に映った。ワンピースから伸びる長い脚はストッキングに包まれているのか、初夏の陽に人工的な艶を放っているのである。

「やあ、おはよう」壬生は相変わらず無邪気である。大声で挨拶した。

 女は軽く頭をさげただけで、走り去った。なんだか、真面目な顔つきをしていた。自転車の後にはあやめの花束が載せられていた。白や紫のあやめの花が、ゆらゆら首を振っていた。

 その日の昼すこし前に宿を引き上げて、例の鞄を右手に、氷詰めの鮎の箱を左手に持って、宿からバスの停留場まで四、五百メートルほどの途(みち)を歩いた。埃っぽい田舎道である。ときどき立ちどまり、荷物を下に置いて汗を拭いた。それから溜息を吐(つ)いて、また歩いた。さらに百メートルほど歩いたころに、「おかえりですか…?」と背後から声をかけられ、振り向くと、あの女が笑っている。黄色いワンピースも、やはりストッキングに包まれた長い脚も、やはり上品だし、髪につけているコスモスの造花もいい趣味だ。

 年寄りが一緒である。じいさんは、木綿の縞の着物を着て、小柄な実直そうなひとである。節くれ立った黒い大きい右手には、先刻のあやめの花束を持っている。―さてはこのじいさんにやるために、今朝、自転車で走りまわっていたのだな、と壬生はひそかに合点した。

「どう? 釣れた?」女はからかうような口調である。

「いや…」壬生は苦笑して、「あなたが落ちたので、鮎がおどろいていなくなったようです」壬生にしては上々の応酬である。

「水が濁ったのかしら」女は笑わずに低く呟いた。

 じいさんは幽(かすか)に笑って、歩いている。

「おじいさんは…?」壬生は話題の転換を試みた。

「お客さんよ」

「客…?」

「そう、わしの娘が死んでのお…」じいさんが年寄りくさい口調で言った。「四十九日でのお。わしは、飲みすぎてここへ泊ってしまいました」まぶしそうな表情であった。「それは、お気の毒に…」壬生は本心から思った。

 年寄り一人の所帯に寄り付かなくなっていた仲の悪かった一人娘が、急に身を寄せるようになって、なにかと、じいさんの世話をするようになったらしい。娘はアレルギーの持病があって特定の食物に対して制限があった。『おいしそうね』その日、娘が外で買って帰ったお好み焼きにフライパンで火を通しながら娘が言った。「そうかい?」『あたしにも、一口いただけないかしら…』「だって、おまえ、それ、だめだろう」『少しだけなら』娘がそれをまさに一口だけ口にした。『おいしい』娘が笑った。「そうか…」『もう一口もらってもいいかしら…?とおさんのがなくなっちゃうわねえ』「わしはかまわんが…大丈夫かい」『こうして誰かと一緒に食べるとおいしいわ』「…」『…』今度は、黙ったまま娘が笑った。

 その晩のうちに、娘は身体の中にショックが起こって逝ったらしい。「止(よ)せって言っとけば良かったかのお…」じいさんが目を伏せた。壬生は、じいさんが憎らしく思えた。
「どうかしら…」女は利巧そうな落ちついた口調で呟いた。まるで令嬢のように…
「おじさんが、やっぱり、夕べは寂しがって、とうとう泊っちゃったの。悪いことじゃないわね。あたしは、おじさんに力をつけてやりたくて、今朝は、お花を買ってあげたの。それから送ってきたの」

「あなたのお家(うち)は、宿屋なの?」壬生は何も知らない。女もじいさんも笑った。

 停留場についた。壬生とじいさんはバスに乗った。女は窓のそとで、ひらひらと左手を振った。

「おじさん、しょげちゃダメよ。誰でも、みんな逝くんだわ」バスは出発した。壬生は泣きたくなった。

―いいひとだ、あの娘は、いいひとだ、結婚したい、と壬生は、真面目な顔で言うのだが、神崎は閉口した。もう神崎には、わかっているのだ。

「馬鹿だね、キミは…なんて馬鹿なんだろう。そのひとは、宿屋の娘なんかじゃないよ。考えてごらん。その日、そのひとは朝から大威張りで散歩して、釣をしたりして遊んでいたようだが、他の日は遊べないのだ。どこにも姿を見せなかったろう?そのはずだ。勤め人なんだよ。わかるかね」

「そうかあ。銀行か…いや、株屋か…」

「そうだといいんだけど、どうも、そうでもないようだ。おじいさんがキミに、照れていたろう?泊ったことを、照れていたろう?」

「わあっ! そうかあ。なあんだ」壬生は、拳(こぶし)をかためて、テーブルをどんとたたいた。もうこうなれば、―小説家になるより他はない、といよいよ覚悟のほどを固くした様子であった。

… 

 令嬢。よっぽど、いい家庭のお嬢さんよりも、その、鮎の娘さんのほうが、はるかにいいのだ、本当の令嬢だ、とも思うのだけれども―ああ、やはり私は俗人なのかも知れぬ、そのような境遇の娘さんと、私の友人が結婚するというならば、私は、頑固に反対するのである、神崎は決心を新たにした。

―終―

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