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短編小説#16

(ある出来事をきっかけにして、桜庭奈保子は夫と別居し、親の残した家で一人暮らしを始めた。そこで壬生七郎といわゆる倫ならぬ関係が始まった。

 積み木が重なったような危うい関係のなかで壬生と奈保子は快楽だけを求め合う刹那を少しでも共有しようと懸命であった。

 二人は子供じみた戯れに興ずる大人で居続けられると信じて疑わなかった。)

 バス通りの小店の灯りがともり始めた頃、夕餉の買い物から戻った奈保子は木戸を開けて玄関に続く敷石にツッカケを鳴らしながら玄関の前に立つと、鍵を握った手を見つめた。

 何かを得心したように小さく頷くと、今来た道を取って帰す。

 木戸に手をかけるとつま先立って左右を見廻す。

 ベージュのコートに両手を突っ込んで、心持ち右肩を持ち上げ、足元に視線を落として近づいて来る男の姿を奈保子は認めた。

 暮色に滲んだ黒い雲に覆われた空を仰いだ奈保子の鼻先を先刻までとは違った冷たい空気が掠めた。

(雨になるかしら…)

「しちろうさん」奈保子は木戸を出ると男に声をかけた。

 静かに立ち止まった男は顔を上げると、いつもの人懐っこい笑みをつくった。

 亜希子が腰のあたりにあてた手のひらを男に向けて小さく振ると、男は元のように視線を落として、ゆっくりと歩き出す。

 街路灯に浮かんだ壬生の青白い姿が闇に浮かんだ。

「さあ入って」先立って歩いてゆく奈保子の白いふくらはぎを壬生は見つめる。

 奈保子が玄関の引き戸に手をかけた時、

「ちょっと待って」壬生は亜希子を手招く仕草をした。

(しかたないわね…)悦びを内心に秘めながら心のなかで呟いた。

 壬生は両手で奈保子の頬を包むと言った。

「こんなに穏やかな夜は久しぶりだよ」奈保子は泣き出したくなる気持ちを振り払おうとして、

「さむいっ」声を上げて壬生の両手を振り払うと家の中に入って行った。

 引き戸の向こうで目を瞬かせるようにして蛍光灯がともった。

 壬生は奈保子の家に上がるが憚られるのが常であった。

 コートのポケットから煙草を取りだすと火を点ける。煙を大きく吸い込むと、おそるおそる戸を引いた。

 居間で煙草を咥えて胡座をかいた壬生は放心したようにストーブの火を見つめている。

 煙草の灰が胡座に落ちるのに弾かれように壬生は立ち上がってテレビのスイッチを切る。

 壬生はくちびるから煙草を抜き取ると、開け放たれた庭に向かって忌々しげにそれを放り投げた。

 踏み石の上で煙草が煙を上げている。壬生は夕餉の支度をしている奈保子の背後に立つと、奈保子の肩口から乳房に手をまわし、何か言おうと振り向いた奈保子の口を塞ぐように唇を合わせた。

 二人は熱い息を洩らしながら身体を上気させてゆく。壬生が奈保子のブラウスに手をかけたとき、

(まって…)奈保子は身体を離した。

 ガス台のつまみを廻すと無数の気泡をせわしなく作っていた鍋の中が音無く(おとなしく)なった。

 壁に掛けた壬生の背広の中の携帯電話の震える音が静まった部屋に響いた。

 二人は目を合わせる。

(でて…)奈保子が壬生に目配せをする。

 壬生が首を振ると背広の震えが止まった。

「どうして」責めるような口調だった。

「女房だ」壬生はその場にしゃがみこんだ。

「わかるの?」

「ああ、わかる。どこかで見ている」壬生は言いながら息を吐く。

「そんなはずないじゃない。逃げないでよ」

「逃げる…?逃げちゃいない」壬生は庭を見る。

「「あいつとは一緒にいられない」って言ったじゃない」

「何度も同じことを言うな」

「何度でも言うわ。別れるって」

「そんな陳腐なメロドラマみたいなことを言うな」

「なにいっているのよ。わたしたちがしていることってそのものじゃない。そうじゃないことってどんなことよ」

「それは…、少し待ってくれ」

「またそんなこと言っている。わたしはもう若くないのよ。この先、欲望を抑えこんで生きていくのなんてイヤ。そんなのむなしい」奈保子は両手で顔を覆って膝をついた。

「ムリを言うな。キミだって本気で亭主と別れるつもりはないんだろう。お互いに家庭を壊さないでこういう関係を続けていったらいいんじゃないか」

「あのひととはもう心が離れているのよ」

「それはわかっている。キミから離れないから心配するな」壬生は奈保子の肩を抱いた。

 奈保子は壬生の胸に顔をうずめると肩を震わせた。

「*って」顔を上げた奈保子の求めに壬生は耳を疑った。

「こんなことお願いできるのは、しちろうさんだけ」それまで自身の嗜好を露わにしなかった奈保子の告白に壬生は混乱した。 

 別れると決めていた女房が死んだ。入念に離婚の準備を進めている最中のことであった。

 強い意思をもって事実を作ってゆく過程そのものにある種の残忍性に心地よさすら覚えていた。ところが意外にも壬生を捉えたのは喪失感などといった女々しいものではなく激しい悲しみであった。

 四十九日の法要が済んでも悲しみにくれていた。口にするものは味気なく、目に映るものは色が失せ、物音ははるか遠くから響き、魂はひとところに落ち着かずに漂っていた。

「もうしょうがないじゃない」神崎亜希子の言葉に壬生は逆上した。

 ほの白い蛍光灯の光にも薄く赤みを帯びた亜希子の頬はどこまでも若く瑞々しかった。

 壬生は両手を亜希子の首にかけた。抵抗の意思を示すこともなく、むしろ、(さあ、はやく)亜希子の促すような表情に壬生は背中を押されるように両手に力をこめた。うさぎのように声を立てないままに見開いた眼のなかでかすかに内に寄った黒目が見つめている。苦悶の表情を浮かべることなく、その表情はむしろ薄い笑みさえ浮かんでいるかのような穏やかさであった。

 あっ、妻の呪縛から解かれたかのように壬生は両手の力を抜いた。

「壬生課長」女の声に壬生は振り向いた。

「キミは…」女に見覚えはない。「経理部の神崎亜希子です」女は壬生の目を覗き込むようにして言った。

「経理の…それでなに?」壬生の表情が曇った。

「ちょっと気になることがありまして」

「気になること…」

「ここじゃ話にくいので」(まさか…)壬生は胸騒ぎを覚えた。

 暮れ方になって急に勢いが失せた陽の光が窓から差し込んでテーブルに当たっている。

 客と会うという口実で職場を出てきた壬生は二本目の煙草に火を点けた。

 腕時計の針は約束の時間を過ぎていた。

「髪切ってきました。やっぱり遅れちゃった」亜希子は屈託のない笑みを浮かべた。短く切った髪のせいか、先刻の事務服の亜希子の野暮ったさは、すっかり失せていた。

 お互いが相手の気持ちを量り切れずに不要な距離感を保とうと躍起になっている。

 二人の歳の差は自身の想いを伝えるだけの無邪気さを鍵のかかった木箱に押し込めているのであった。

 壬生は亜希子に誕生日の祝い品と称して高価なバッグを贈った。

「どうしてあなたにこうしてあげるのはどうしてかわかる?」

「えっ、どうしてですか」

「それはあなたの真面目さと一生懸命さが伝わってくるからさ」亜希子は一般論的な答えに食い足りなさを覚えた。

「それだけですか」壬生の表情が歪んだ。そして、息を呑み込むと意を決したように言った。

「この歳になると恥をかきたくない」亜希子は壬生を見つめる。

「恥をかく…って」壬生は耳の後ろが熱くなるのを覚えた。

「色恋事で袖にされることさ」

「そでにされる…」

「つまり、ふられるってこと」壬生は窓の外の暮れ方の陽に照らされた街路樹の黄色の葉に目を向けた。

(言ってしまった)口にしてしまったことは取り返しがつかないことは理解しているが後悔の念は拭えない。

「いや、いいんだ。聞かなかったことにしてほしい」壬生は煙草に火を点けるとせわしなく吸った。

「意外です。そんなふうに想っていてくれたなんて」亜希子は目を小さくして微笑んだ。

「おっさんがそんななんて気持ち悪いよな。ごめん、許してほしい」壬生は目を伏せた。

「わたしもみぶさんのこと好きです。でも…」

「…」壬生はテーブルを見つめたまま次の言葉を待った。

「おくさんもいるし、それってダメなことじゃないですか」亜希子は覗き込むような瞳を向けた。

「…世間的、いや倫理的にはダメなことくらいわかっているから苦しいんだよ。でも好きあっているならダメも悪くないんじゃないかな」

「…結婚して、子どもも欲しいし」

「好きな人、つまり一緒になりたいひとができたらそこまでだよ」まるで鏡に映った亜希子の心の内を見透かすように壬生は言った。

「そんなにかんたんにいきますか」

「それはキミ次第さ。それならオレは追いかけない。惨めなことはしたくない。そんな歳だよ。心配するな」

「おくさんにばれたら」

「そんなことはない。二人だけの秘密にすればいいんだ。キミに迷惑はかけない」

「…」亜希子はコーヒーカップを取り上げるとふちを指で拭った。

 就業時間の五時ちょうどに席を離れるとエレベーターホールに向かう。目の前の三基のエレベーターはいずれも離れた階に止まっている。

 下りの釦を押すと三基とも亜希子の立つ階に近づいてくる。真ん中のエレベーターがチャイム音をたてて扉を開けた。誰も乗っていないことを幸いにエレベーターに乗り込んだ亜希子は小さな息をついたのもつかの間、開いた途中階の扉が開くとそこには奈保子の姿があった。

 亜希子は乗り込んでくる奈保子に気圧されるように箱の奥に体を寄せる。箱の中の空気が膨らんだ。

「宣伝部のかんざきさんですよね」奈保子が振り向いた。

「え、ええ」亜希子は肩をすくめるように答えた。

 木造家屋の二階の喫茶店の窓際の席で亜希子は所在なさ気に辺りを見廻した。

 小さなテーブル挟んで脚を組んだ奈保子が窓の外を眺めている。

 六時になろうとする時間とあって、客は新聞を広げた紳士然とした年老いた男一人だった。

 『おまたせしました』店の主人と思しき初老の男が銀色のトレイに乗せた二つのコーヒーをテーブルに置いた。

『ありがとう』奈保子は男に顔を向けると軽くあごを引いた。

「ご迷惑だったかしら。ごめんなさい」奈保子の表情は変わらず、物言いにすまなそうな響きは感じられない。いえ、亜希子は消え入りそうな声で奈保子の目を見ずに言った。

「入社以来、ずっと経理部。だったわよね」

(人事部だからといって、どうしてわたしのことなんか…)胸の奥を撫でつけられたような心持ちになって息苦しさのあまり飲み込んだ息が喉の奥で鳴った。

「そ、そうですが…」亜希子は呑み込まれそうな雰囲気に抗おうと自身を鼓舞した。

 奈保子は答えずに薄く笑うと「わたしのことご存知ですよね」尋ねた。

「人事の桜庭さん…ですよね」

「そう」奈保子は、先刻、店の男にしたようにあごを引いた。

「四十でバツイチ。あなたとひとまわり違い」

「はあ」

「そのほかに、なにか知ってることは」瞳の中に挑むような光が宿っている。

 亜希子は、あっ、という声にならない音の飲み込んだ。

「いいえ」

「そう…」相好を崩した奈保子の目がなくなった。

「冷めちゃうわよ」亜希子のコーヒーカップを指差した奈保子の白い指は白くて長い。

「…」カップの取っ手を持つ亜希子の指がかすかに震えた。

「みぶさんとわたしこと知ってるでしょう」奈保子の言葉に亜希子は動揺した。カップを持つ指の震えが大きくなる。

「みぶさん…ですか」

「とぼけなくてもいいのよ。わたし知ってるの」奈保子は身を乗り出した。

「見たの。みぶさんの携帯電話。あのひとがウチのお風呂を使っているあいだに」奈保子は立ち上がると伝票を取り上げ、カウンターに向かって行く。

 奈保子の踏み出す足に合わせて反対側の肩を揺するようにして歩く姿が亜希子には芝居がかって見えた。

 店を出た亜希子は奈保子との時間に現実感をもてないままに駅に向かって歩き出した。

 あっ、銀杏の実を踏んだ感触が足裏に伝わってきた。

 亜希子は植え込みの淵に腰を下ろすとパンプスを足からはずして裏返した。

 街路灯に照らされたパンプスの裏には茶色の皮からはみ出た乳白色の果実がすり身になっていた。亜希子はパンプスの裏に鼻を近づけた。

 うわっ、眉根を寄せるとすり身を指先で弾き飛ばした。

 爪についたすり身をスカートのすそで拭って立ち上がった時、ハンドバッグの中の携帯電話が震えた。

「神崎さん、用事って」

「昔、なにかありましたか」亜希子は気持ちを奮い立たせた。

「むかし…なにか…それじゃ漠然としすぎて」奈保子は腕を組んだまま小さく首を傾げた。

「桜庭さんと壬生さんを結ぶきっかけみたいなこと…」

 奈保子は得心したようにあごを引くと、

「もったいぶらないで言っていいのよ。会社のお金を使い込んだことでしょ」奈保子は轟然と言い放った。奈保子の意外なほどの切り返しに亜希子はたじろいだ。

 彩子に接ぎ穂を与えずに続ける。

「みぶさんのおかげで救われたの。ダメなひとだと思っていたけど、けっこう頼り甲斐があってグッときちゃつた」奈保子は窓の外に視線をやった。

(ムリ…)亜希子には返す言葉がなかった。

「もういいかしら」奈保子は立ち上がると伝票を取り上げた。

 奈保子は携帯電話の画面から目を離せずにいた。メールに添付された画像の中の身動きできない身を捩ってカメラに向けた自身のもの憂げな表情にはある種の恍惚感が滲んでいた。

「メールアドレス教えてちょうだい」亜希子は奈保子の求めに躊躇なく応じたことを悔やんでいるわけではないし、奈保子の仕打ちを挑戦と受け取るほどの闘争心も持ち合わせいなかった。

(奈保子さんってヘン…)奈保子の揺さぶりを意に介さない亜希子はどこまでも無頓着すぎた。

 奈保子は枕元の携帯電話の画面に指を滑らせると耳を当てた。

 呼び出し音が五回鳴ったところで電話を切った。

「今日、奈保子さんと会ったの」

「奈保子って…」

「桜庭奈保子」

「うちのさくらばさんか…」壬生の振る舞いに揺らぎはなかった。

 壬生にとっての亜希子との逢瀬の態度はまるで幾年も交じり合った家族に接するように自然だった。家族との違いは二人の間には生活が存在しないことだった。

「みぶさんが奈保子さんを救ったってどういうこと…?」

「…あのことを言っているのかなあ。会社のお金を懐に入れちゃった話」壬生の軽い驚きを宿した表情からは微塵の隠し事も窺うことはできなかった。

(奈保子に、謀られた…)と思わせるほどに壬生の無垢な振る舞いに亜希子は混乱した。

「彼女が言ったのなら話すけど。ちょっとイヤな話だけど…」腰を引き寄せた壬生の手が亜希子にはいつもよりも冷たく感じた。

 二年余り前のことだった。

 相談を受けた壬生を見つめる奈保子の目はいつもの嘲りを宿したものではなかった。

 ヤクザに揺すられているという。奈保子はそこがフロント企業と知らずにある企業に社員教育セミナーの委託をした。

 相手にそそのかされてバックリベートを受け取っていたことを理由に揺すられた。

 奈保子は自らトラブルを片付けようとして暴力団の事務所に単身乗り込んだが、事態はさらに悪化した。

 奈保子の元に半裸の姿で自由を奪われた写真が届いた。暴力団は高額でネガの買取りを要求してきた。

 奈保子ひとりではとても工面できる額ではなかった。

 奈保子は要求を突っぱねた。

 時間を置かずに会社にその写真がとどいた。

 それを壬生が受け取った。壬生は奈保子に問い質した。

 暴力団が買取り要求する金額は更にエスカレートした。

 自らの力を越える事態に壬生は悩んだ。

 会社としては脅しに屈する訳にもいかず、職務柄、警察とのパイプをもつ壬生の働きで秘密裏にことを収めた。

 もはや戯れを超えてエスカレートする求めに応じることに危うさを覚えた壬生は奈保子を遠ざけるようになった。

「じゃあ、あの男のところに戻る」奈保子は【揺さぶり】をかけてきたヤクザの名前を口にした。

「正気か…」

「もういいっ!」奈保子が声を上げた。積み木が崩れた。


 降り続いた雨のせいか、苔むしたような空気が夜の街に佇んでいた。

 空気が動いた。どこからか焼き畑の匂いが鼻をついた途端、不意に壬生の記憶のテープが巻き戻されたかのように、壬生は鴨居に両手首を括られて、うなだれた奈保子の姿を思い出した。

―完―

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