【短編小説#29】
壬生七郎は縁側の日だまりの中で届いたばかりの賀状をせわしなく、あぐらの上に重ねていた。
おっ、そのうちの大仰な一枚に手を止めると、それを裏表にしながら表情を綻ばせた。
(神崎じゃないか…)壬生はそれを手に取って柱に寄りかかると、庭先の寒梅の老木を眺めるようにして三十年あまり前の日々を思いだしていた。
…
かつての名門校も今や弱小校となって、最後の夏の予選も早々に敗退した。それでも、壬生は野球に対する未練を捨てきれずにいた。
さしたる実績もないから実業団からもスポーツ推薦入学の声がかかることもなかった上に商業高校からの入学ということもあって、一般入試による現役合格も叶わず、一年間の浪人生活を経てM大の二部に入学した。入学と同時に野球部に入ったが甲子園出場経験者らの才能の中に壬生の未練は完全に埋もれた。三年生になってもベンチ入りの機会を与えられることもなく、野球に対する情熱は次第に失せて、鬱屈とした挫折感だけがつのっていった。
それに裏付けられた行き場を失った負のエネルギーの行き先は母校の後輩に向かった。時間を持て余した壬生は監督教師の了解を取り付けて後輩の指導と称してグラウンドに顔を出すようになった。
「ウチにしちゃ珍しいのが入ってきたんですよ。守備はいただけないがね」打撃練習を眺めながら言う監督の言葉のとおり、その一年生の非凡な打撃センスには壬生も共感した。
「固い球は初めてか?」
「ハッ」神崎武美はバリカンの刃がこれ以上入らないくらいに青々とした頭を下げた。
「オレの球を打ってみるか」
「ハッ」武美はあどけなさの中に人なつこさを湛えた笑顔を向けた。
「ニヤニヤするな」壬生の言葉に武美は表情を引き締めて上半身を律儀に折った。
最初のうちは大学生の速い球にバットを詰まらせていたが、次第に外野手の頭を越すような打球を飛ばすようになった。
外からバットが出てくる癖があって理論上はほめられるフォームではなかったが球を捕らえるセンスは持ち前のもので、捕らえた球は決して離さないといったばかりに並外れた手首の強靭さで外野に球を運んでゆく。
(よし…)壬生が渾身の力で投げ込んだ球を武美は外野とテニスコートを仕切るネットの向こうに運んだ。その球は危うくテニス部員に当たるところだった。
(こんなガキにやられるなんて、やっぱりオレはこんなものか…)左中間奥のテニスコートを見ながら壬生は心の中で呟いた。
「これで、最後だ!」壬生が投げた球は武美の頭を直撃した。
(あっ…)壬生をはじめグラウンドにいた者達がもんどり打って倒れた武美の元に集まった。武美は白眼を向いて昏倒していた。
救急車だ!壬生が叫ぶと武美はむっくりと立ち上がり、何事もなかったかのように尻の土を払った。
「おい、大丈夫か」壬生が声をかけると、「平気っす」武美は事もなげに薄い笑みを浮かべた。
(この野郎…)壬生はマウンドの土を蹴った。
…
武美が主将になってチームは一回戦を十二年ぶりに突破した。八回に武美のホームランで勝ち越した。
二回戦の相手の新興の私立学校は前年にベスト8まで勝ち上がり、その年は頂点を目指していた。武美の最初の打席のホームランで相手は【本気】になった。
武美が曲がる球に弱いことを見抜いた。相手投手の変化球を主体としたピッチングにその後の武美は抑え込まれた。武美の夏が終わった。
球場裏で肩を落とすチームメートの中で、武美だけは清々しい表情のままスパイクの土を落としていた。「これからどうする。M大だったら世話するぞ」壬生が声をかけた。「もう野球はいいです」武美はきっぱりと言った。「もったいないな」「すみません」武美は伸びかけた髪の毛に覆われた頭を下げると遠征バッグを肩にかけた。
…
「K大なんてすごいじゃない」現役で難関大学に入学した武美を【合格祝い】と称して食事に誘った桜庭奈保子は酒に潤んだ目を向けた。
「七郎と別れちゃおうかな」奈保子は煙草の煙りを天井に向かって吐きだした。
「ねえ、わたしと付き合わない」奈保子は武美に身体を向けた。
「まずいですよ。壬生さんに何されるかわからない。これきりにしてください」武美は起き上がるとベッドの端に腰掛けた。
「…わたしのこと嫌い?」奈保子は武美の背中に頬を押しあてた。
正月の公園には人気がなかった。澄んだ夜空には触れると刺さりそうな月が浮かんでいた。壬生が口を開くたびに吐息が白く散った。
「わかっているよな。歯をくいしばれ」壬生の声が震えた。激しい衝撃とともに視界が揺れた。足元が崩れそうになるのを武美は懸命に堪えた。
「あいつには近寄るな」遠ざかって行く壬生の後ろ姿を見つめながら武美は口元を手の甲で拭った。
…
「先輩、労務安全課に空きができてしまって、お力を貸していただけないでしょうか」今の職場の早期退職勧奨に応じるかどうか迷っていた壬生は武美の慇懃無礼な物言いの申し出に不快感を覚えながらも結局は応じることにした。家の借金が残っている壬生にとって、割り増しの退職金を手にすることができた上に、仕事を続けられることは有り難いことだった。それまでの職種とは違ったものの、彼の生来の生真面目さから壬生が仕事を自身のものにするのに時間は要らなかった。
入社して一年も経とうという頃のある日、壬生は武美に誘われて二人は酒席を持った。職階は武美の方が上だが上下関係の厳しい学生時代を過ごした二人はいつだって先輩後輩の間柄だった。
「奥さんお元気ですか」
「ああ、すっかりばあさんになったがな」武美の切り出しに壬生は酔いのせいか、ためらいもなく応じた。
「それは良かった」武美は安堵の表情を浮かべると杯を空けた。
「これで、やっと償いが済んで荷物を降ろせた気持ちになりました」武美が頭を下げた。
「つぐない…」壬生は即座には武美の言葉の意味を理解できずにいた。
「あの時の痛みが解けた気分です」壬生は武美の眼差しの強さに恐れに近い感情を覚えた。
「ところで先輩、先輩だから話しておきたいんです」武美が声を潜めた。
「なんだい」壬生が身体を乗り出す。
「実は、わたし、次の衆院選に出るつもりです」
「えっ。会社は?」
「辞めます。すみません」武美が頭を下げた。
「…」壬生は言葉を失った。
武美の後ろ盾を失った壬生は閑職に追いやられた。申し訳程度の退職金つまり手切れ金を受け取って壬生はその会社を辞めた。
…
武美の政治家としての評価は高く、将来の総理大臣と目されていた。
壬生にとって武美が自身の後輩であることが誇らしく、近しい人間にばかりか、そうでない者に対してもそのことをふれ回った。一方でその実、武美が議員になってからは彼からの一切の連絡が途絶えていた。賀状さえも途絶えた。
(一国のトップになろうとする人間だ。仕方ない…)という寛容よりも、(ここまでなれたのも、オレのおかげでもある…)といった思い上がりが勝っていて壬生は有頂天だった。
…
「あなた、お客様がお見えよ」居間から妻の久美子声がした。
(だれだ。正月に…)
「どちら?」久美子からの返事はなかった。立ち上がろうとした時、『たった今、ニュースが入りました』武美が昨年末に脳出血で死んだことをラジオが臨時ニュースで伝えていた。
あっ、足元で湯呑みが転がった。
「あなた、早く!」妻の声がした。壬生はニュースに未練を覚えながら玄関に立った。
「奈保子か…」玄関で女が頭を下げた。
―終―