見出し画像

短編小説#22

(第22話)

(プロローグ)

 神崎武美は桜庭奈保子から預かった手紙をどうしたらよいものか思案していた。

「みぶさん」奈保子は壬生七郎をそう呼ぶ。もっとも、社の人間のいる前では「部長」と呼ぶ。

 みぶさん、と呼び始めたときと自身から願い出て経理から商品開発に異動してきたのと時を同じくする。

 彼女が企画した商品が当たった。

 男尊女卑のこの会社でも彼女の評価は一気に高まった。

 実際の年齢を思わせない愛くるしさに向けられた社内の若手独身男性の関心をよそに彼女の関心は父親ほどに歳の離れた壬生に向いた。

 結婚まで秒読み段階にある自身よりいくつか歳の若い男との交際を進めているのにも関わらず…

 酒を飲んだら別れる、壬生の言葉に寝耳に水といった亜希子の表情には意外感が交じっていた。

 そうね、亜希子には本気にしている様子はなかった。

 ただいま、声をかけたが返事がない。

 やっかいな仕事の片がついたその数日後、平素より早い時間に帰宅した壬生に【キッチンドリンク】中の亜希子はいつもの敵意に満ちた視線を向けた。

 壬生はそのまま家を出た。

 歳も押し迫っていた。

 企画部の四人と担当取締役の笹川は銀座の老舗店で中国料理を楽しんだ。

―わたしの行きつけの店でもう少しやらないか、という笹川の誘いは空振りに終わり、散会となった。

「少し付き合ってもらえないか」地下鉄の階段を下りて行こうとする奈保子に壬生は声をかけた。

 奈保子は自身の誘うような視線を好意的に受けとめた壬生の誘いに表情を崩すこともなく、むしろ、故意に意外そうな表情を壬生に向けた。

 晴海通りから入ったみゆき通りの終わる右手の二階にその店はあった。

 階段を軋ませながら先を昇って行く壬生は身体ごと後ろに預けるようにして木製の扉を引いた。

 左手の壁に沿うようにして四人掛けのテーブル席がふたつ、右手の奥には七人程度が腰をかけることのできるカウンター席がある。

 いらっしゃい、カウンターの中のバーテンの低く響く声に向けて壬生は二本の指を立てた。

 バーテンは顔を上げると掌を上に向けて自身の目の前の席を勧めた。

 アスファルトが濡れていた。

 雨がひと粒、壬生のつむじに落ちた。

 秋の風が奈保子の鼻先を撫でた。

「また、会ってくれないか」奈保子は応えない。

「また連絡する」

「ええ」

「送ろうか」

「だいじょうぶです」奈保子は壬生の脇を通り抜けて地下鉄への道を歩いて行く。

 雨粒が増え始めた。壬生は顔だけを向けて、奈保子が地下鉄に吸い込まれるように消えて行くのを見ていた。

 壬生は奈保子のネイビーカラーのストッキングに包まれた形の良い脚の美しさに惹かれた。

 ウチにいたらいいよ、壬生は奈保子の申し入れに従った。寝床を一緒にする以外には、生活を共にしたわけではない。

 帰る時間も出かけてゆく時間も違えば、食事をするわけでもない。会話といえるものもなかった。 

「別れたの?」

「ああ。朝、紙が届いた。ここに来るついでに役所に寄ってきた」

「別れたの?じゃ、わたしと結婚しようよ」奈保子は毛布を体に巻きつけるようにベッドを転がりながらいった。

「あのな、そんなことしてみろ。また、あいつに脅かされる。それどころか、キミの彼氏にアタマ割られちゃ、かなわん」ベッドに腰掛けた壬生が顔の前で右手を振った。

「ざんねんだなぁ…そんなこといってホントはわたしのことキライなんじゃないの」奈保子は頬を膨らました。

「オレを困らせるようなキミは嫌いだ」壬生は冷たい視線を向けた。

「ごめんなさい」奈保子の表情が固まった。

「それじゃ、オレのいうことをきくか?」

「は、はい」

「ききわけのいい子だ。両手を背中にまわしなさい」

「はい」奈保子はベッドの上に横座りになると壬生のいうとおりにした。

「いつまでもいる訳にもいかない」十日もすると奈保子の居心地の悪さが伝わってきた。

「どうして?住むところが決まるまでいたらいいじゃない」

「獣みたいな男もそろそろガマンの限界だろう」壬生が薄く笑った。

 奈保子に男がいることは聞かされていた。

 その男は学生時代からの付き合いで、資産家の長男で、ラグビーを続けながら有名私大を出て、商社に勤める男前らしい。

「みぶさんみたいなちょっと変態っぽいのもすきだよ」奈保子は潤んだ瞳を向けた。

「そんなのは、物珍しいだけだ。すぐに飽きる」奈保子が足の指を動かした。

「そうかなぁ…じゃ、こっちからまた連絡する。バッティングしたらまずいでしょう」

「オレはかまわないが、彼が穏やかじゃないだろう」

「…そうね」奈保子は遠くをみた。

「彼についていけない」奈保子はグラスに半分ほど残ったワインをひと息に飲み干した。

「酔ったのか。オレは酔っぱらいだけど、酔っぱらいは嫌いだ」壬生はたしなめるような視線を向けた。

「まったく勝手なひとね。正直、酔ったからいうけど、からまないから聞いてくれる?」壬生は黙ったまま奈保子をまっすぐに見た。

 奈保子は得心したようにうなずくと話し始めた。

 結婚を申し込まれた奈保子が初めて卓也の両親に会ったのはひと月ほど前のことだった。

 都内の閑静な住宅街に卓也の家はあった。

 奈保子は門から玄関につながるアプローチを歩きながら、卓也の妻になるのではなくて、この古い洋館に嫁ぐことになるのではないか、そう感じた瞬間、先を歩く卓也にそれまで一度も抱くことのなかった他人のような感覚を覚えた。

 そして、卓也が母親のことを臆面もなくママと呼ぶことに違和感を覚えた。

 奈保子は資産家で実業家の父親に子供を産む能力の有無をたずねられた。

「わからない」と答えると、

「検査をして欲しい」といわれた。

―むりだわ…奈保子の心は揺れた。

「おぼっちゃんなんだからそう呼ぶのも不思議ではないし、資産家のウチなんだから当然、跡継ぎのことを考えている。当たり前のことじゃないか。入ってしまえば慣れるって。こんな縁はなかなかもてないぞ」

「ひとのことだからとおもって…」壬生の他人事のような物言いに奈保子は腹が立った。

「オレのことじゃない」

「みぶさんと結婚したい。ダメ?」

「ダメ」

「どうして?みぶさんだって、どうせわたしのこと好きなくせに」

「酔っぱらいは嫌いだっていったろ」

「…」

「じゃ言おう、正直いってキミに惚れている。だけど…」

「だけど、なに?」

「家庭をもてない」

「意味わからない」

「子どもをもてない」

「どうして?まだできるじゃない」

「こんな古いタネでいい子できるか。それにキミを養っていくことができない」

「子どもなんか要らないし、ふたりで働けばなんとかなる」

「子どもは生めるなら生んだほうがいい。権利を放棄する権利はキミにない。傲慢だ。それに、ふたりで苦労するにはオレはもう若くない」

「じゃ、どうしろっていうの」

「カレと一緒になるのが一番いい」

「いやだ、そんなの」奈保子は両手で顔を覆った。

 壬生は勤め先を辞めた。遠くない時期の取締役への就任はもはや既定路線であったのにも関わらず。

 看板の軽さに気づいたから未練を振り払うのに苦はなかった。守るものの優先順位の転倒が自身を突き動かした。つまり自身の順位が上がったのである。

 同業者の野心の沈没を目の当たりにした壬生は思い切った。

―店を持って、邪魔にならない程度のカネを稼いで、身の丈に合った満足を手に入れたい、そう思ってそうすることにした。

―あのオヤジにだけは顔を見せておかなきゃな、暮れ方の通いなれた駅への道を歩きながら思った壬生は、なじみの蕎麦屋に顔を出した。

「みぶさん、辞めちゃったんだって」店主が寄ってきて向かいの席に腰を下ろした。

「はやいね」壬生が頭を下げた。

「いやいや、世話になったのはこっちのほうですわ」店主も恭しく頭を下げた。

「痛手ですよ。みぶさんがいなくなったら、ウチの商売、あがったりだ。おいっ!酒だ」店主はカウンターの中に向かって声を上げた。

 車窓の向こうに浮かぶ触れたら切れそうな三日月が並んで走るのを見つめながら、壬生は店主の言葉を思っていた。

「親が死んだらウチには帰らないもんだよ」

―そんなものか、そう思った時、月が見えなくなった。

 不意に、ひと月あまり前の文治の葬儀の際に見かけたテナント募集広告の看板を思い出した。

―喫茶店でも始めるか、壬生はおよそ四十年ぶりに育ちの地に戻ることにした。

 居酒屋だった居抜き物件に手をいれて喫茶店の体をなすのに五百万ほどをかけた。

 手持ちのカネで賄えるほどではあったが、いざ店を始めてみるといろいろと不都合があって意外に出費が嵩んだ。

 退職金の一部を充てた。

 始めたのは今風のモダンな店ではなく、いわゆる純喫茶だった。

 壬生は店を【蜜柑】と名付けた。

 県営住宅のなかの商店街の一角にある店だから主な客層は年寄りだが、仕事の打ち合わせに使うサラリーマン、井戸端会議の子育て中のママ友、会合の自治会の役員らで【蜜柑】は壬生の想像を超えて流行った。

 暮れ方になると酒も売った。

 男女の情欲が狭い店の中に膨らむ。

 奈保子は土曜の午後になると店の手伝いにやってくる。

「みぶさん、いま、おかあさんに連れられた車いすの女の子が店の前で、なんかためらっているようだったので声をかけたの…」隣のスーパーでちょっとした食材を買って戻った奈保子が話し始めた。

「五時からなんですよ。もう少し」奈保子は腕時計に目をやった。

「でも、だいじょうぶかなぁ、マスターに聞いてみます」

「いや、いいんです」ドアに手をかけた奈保子を制するように母親がいった。

「ただ…」

「…」奈保子が小さく首をかしげた。母親が話し始めた。

 母親の話はつぎのとおりだった。

「この夏、母が、この子、始子(ともこ)といいます。始子からすればおばあちゃんになるんですが、ここに連れてきたんです。ここのホットケーキがおいしくて、また来たい、と始子がいい出したもので、こうやって連れてきたんですが、いざ入ろうとしたら、「イヤだ」って言い出したんです。ねえ」母親が始子の顔を覗きこんだ。

「…」始子がうなずいた。奈保子がしゃがんだ。

「でも、どうして?おじさんが、『マスターっていうの』つくるホットケーキわたしもすき。おいしいもんね」

「…」始子がうなずいた。

「じゃ、はいろうか」奈保子が始子の手を握った。

 始子は眉根を寄せると手を引いた。

「おトイレが」

「トイレ…」

「実は、トイレがダメなんです」母親が代わりに答えた。

「ホットケーキを食べ終わって店を出たところで粗そうをしてしまったんです。この子、生まれてすぐの事故で腰から下が動かなくてそれなりのトイレでないと用が足せなくてね…」母親は悲しそうな目を向けた。

「…そうなんですね」奈保子に継ぐ言葉が見つからなかった。

「そうか…」

「でもここって借りてるんでしょ」

「ああ」

「でも、大家は県なんだからバリアフリーの予算もっているんじゃない」

「そうか。そうだよな」

「お客さんに自治会の会長さんがいたじゃない」

「なんてひとだったかな…ひる…そうひるまさんだ。キミ、電話番号知っているか?」

「あっ、えーと。あった。あった」奈保子は携帯電話のボタンを押した。数日後、壬生は自治会の役員を通じてその旨を県に働きかけた。

「キミ、大胆過ぎないか」奈保子の膝上丈のスカートに壬生が視線を向けた。

「だいじょうぶ。お客さん、とくにおじいちゃん喜ぶわよ」奈保子はいたずらっぽく笑った。

「せいぜい気をつけるんだな」壬生はまな板に視線を戻した。

 酒を出す時間になって開けた店に入ってきた男は両手をズボンのポケットに突っ込んだままカウンターに腰をかけた。

「ビールちょうだい」

―セキネだ、壬生はその甲高い声と男の容姿で確信した。

 オールバックにした髪は白くなっていたが、初めて目を合わせた相手を例外なく不快にさせる、つり上がったその目は中学時代のセキネのそれに違いなかった。

「覚えているよな。シチロウ、ずいぶん景気良さそうじゃねえか」

「ごぶさたです」壬生は頭を下げた。

「おまえの親父にはひどい目にあわされたよな」セキネの目が据わっている。

「…」

「ちょっと前だったよな、死んだのは。ざまみろだ」セキネが声を上げた。他の客の視線が向いた。

「セキネさん、他のお客さんに迷惑だから」

「迷惑だと、こっちはてめえに親父にひどい目にあってるんだぞ。おら!」

「何かあったんだか知らないけど、あんたさっきから、みぶさんにからんでるけど、目障り、耳障りなんだよ」奈保子が割って入った。

「そうだ」客の一人がセキネに詰め寄った。

「なんだと、このジジイ、関係ねえだろう!」セキネがその客を突き倒した。ううっ…初老の客が後頭部を抱えて呻く。

「あんた、いい加減にしなさいよ」奈保子が客を抱き起こしながらセキネを睨みつけた。

「威勢がいいじゃねえか」セキネは椅子から降りると奈保子の尻に触れた。

「おお、いいケツしてるじゃねえか。ジイさんたち興奮させてどうしようっての」

「なにするの、この変態っ!」奈保子がセキネの頬を張った。

「このおんな!」

「やめなよ」上げたセキネの手を壬生がつかんだ。

「いい加減にしてくれないか。出て行ってくれ」壬生がセキネに向けた視線には殺意が宿っていた。

-みぶさん…「そうだ、でていけっ」他の客が声を上げた。店中に声が上がった。

 中学に入学して間もなく壬生の両親は離縁した。

 隣町のスナックで雇われママをしていた母親は客とねんごろになってその男と町を出た。

 北の地から届いた離婚の申し出に父親の文治は合意した。

 母親を失って空いた七郎の心の隙間に、二つ年長のセキネがつけ込んだ。

 七郎は万引きの手先に使われた。

 幸いなことに店主の計らいでそれはおおっぴらにならずに済んだ。

 文治は頭が吹き飛ぶほどに息子を殴った。

 神戸で沖仲仕をしていた文治の腕っぷしはそれほどに強かった。

 自身の情けなさと母親を失った息子のつらさを知っている文治の目には涙が浮かんでいた。

 そんな文治を見て、七郎は関係を絶とうとセキネのもとに向かった。

 ただでは承服しないセキネはカネを要求した。

 頭に血が昇った七郎はセキネに体当たりを食らわした。もんどりうって、体勢を立て直そうとするセキネに馬乗りになった七郎は手にした傍らの石くれをセキネの後頭部に叩きつけようとしたそのとき、誰かがその手をつかんだ。

-とうさん、文治はうなずくと、そこを退くように目で合図した。

「こら、立たんか」文治はセキネの首根っこをつかまえて立たせた。

「ウチのガキにちょっかいだすんはワレか」黙ったまま三白眼で睨み返すセキネを殴り倒した。顔が歪むまで殴った。さらに、気を失いかけたセキネの襟元を締めあげて「ワレ、これ以上ウチんとこのガキにかまうようやったら、いてまうど、わかったな。ワレにもおやじがおるんやったら、そういっておけ」文治が手を離すと、セキネは腰から砕けて気を失った。

 道の両脇から出てきたセキネと子分であろう男達が壬生の行く手を遮った。

 壬生は肩を回してセキネ達をかわした。

「…ずいぶんと威勢のいい女じゃねえか」セキネが壬生の肩を掴むと耳元で囁く。

「まだ子供だ。勘弁してやってくれ」壬生の噛み締めた奥歯のあたりの筋肉が膨らんだ。

「子供だぁ?ありゃ、もう立派な女だよ、おとしまえをつけてもらわねえとこっちの収まりがつかねえ」

「…」壬生が黙ったまま煙草をくわえる。そのそばからセキネは壬生の唇から煙草を指でつまんで抜きとる。

「あの女、おまえこれか」セキネが小指を立てた。

「むかしの部下だ、それだけだ」壬生は目だけをセキネに向けると、再び煙草をくわえる。

 セキネが同じように煙草を抜きとった瞬間、―奈保子すまん、そう心の中で呟き終わるのが早いか壬生の左の拳がセキネの脇腹にめり込んだ。

うっ…腰を折ったセキネの左の耳の後ろに右の拳を叩きつける。膝をついたセキネの先刻とは反対の脇腹に靴先をめり込ませる。前のめりに地面を這ったセキネは自身の吐瀉物に顔をうずめた。

 壬生はセキネの後ろ頭を踵で踏みつける。もはやセキネは声を上げることをしなくなった。完全に意識の失せたセキネを靴先で仰向けにする。

 顔面を力一杯踏みつける。セキネを置いたまま別の男達は散った。

 壬生はセキネの見開いたままの男の両目を指で閉じた。

 木製の重い扉から変わった自動扉に【車いすでもトイレが使えます。】と書かれたプレートが貼られている。

 始子は目の前の開かれた店の中を見回した。

 いくつか席が減っていて、車いすの行き来がし易くなっている。

 始子は顔だけを奈保子に向けた。

 奈保子は小さくうなずくと車いすを押した。

「じぶんでやってみる」始子はおそるおそる車輪をまわした。

「いらっしゃい」カウンターのなかから出てきた壬生がしゃがんで始子の頭を撫でた。

「トイレみてみるかい?」始子がうなずく。

「こっちだ」先立って歩く壬生に始子がついてゆく。

「じぶんで押せるかい?」壬生が開閉ボタンを指さす。

「うん」始子は車いすの車輪を扉と平行の位置に動かすと手を伸ばした。扉が開く。

「入ってみな…」壬生がいい終わらないうちに始子は車いすの向きを変えてトイレの中に入る。

 午前十時の陽が溜まっている。

「これからも、この店にきてくれるかい?」

「うん。おかあさんにもはやくおしえたい」始子が微笑んだ。

 微笑み返そうとしたが、微笑むことに慣れていない壬生の表情が歪んだ。

 短髪の男は壬生に向き直ると盛大に煙草の煙を吹き上げた。

「本当にいいのか」男の視線がわずかに泳いだ。

 壬生は黙ったまま男に両手を差し出した。


 塀の内側に来てからニ年ほどして奈保子から手紙が着いた。

 手紙には、…結局、彼と一緒になりました。九月の末に男の子ができました…と書かれてあった。

 手紙と一緒に親子三人が揃って写った家族写真が添えてあった。

(エピローグ) 

 壬生は約束の時間より早く店に入った。

 彼は他人を待たせたくない性質(タチ)だった。

 暖簾をくぐって戸を引くと須永の大きな背中が店の奥の小上がりにあった。

「もう、来てたか」壬生はグラスにビールを注ぐ背中に声をかけた。

「おお…来たか」短髪の日焼けした顔に白い歯が浮かんだ。

 これ、カウンターの中に向かって壬生は神崎武美の前のビール瓶を指差した。

 県警の捜査一課の神崎とは高校生時代の野球部の同窓である。

 あまり行儀の良くないこの男は組織を揺るがしかねない情報を握っていて、県警はこの男を持て余していた。

「小蠅を片づける。セキネだ。セキネタカシ、こっち専門だからお前にはピンとこないかもしれない」壬生は人差し指を丸めてみせた。

「もう少し時間が欲しい。ワッパはオマエに嵌めてもらう。たのむ。残った女もたのむ」壬生は須永にテーブルの下から大手の百貨店の包装紙にくるまれた帯付きの札束をいくつか差し出した。

「預かっておく」神崎は狡猾な笑みを浮かべた。

―完―

いいなと思ったら応援しよう!