【連載小説#41】(11回目)
(少年は通りの向こうから手を振っている老人に向かって走り出した。
「しょうじ君、車に気をつけるのよ」彼女は心配そうに少年の姿を目で追っていた。
「去年、あの子の両親は事故でふたりとも亡くなってしまいましてね。わたしたちふたりでは、これから先あの子を育てるのは無理なので親戚に預けることにしたんです。半年の間でしたけど、あの子がわたしたちのそばにいてくれたのは南町イーグルスのおかげなんです。野本さんに事情を話したら特別にチームに入れてもらえたんです。ぜひお会いになってみるといいですよ。本当にいいひとです。それでは…」
女性は夫と孫の待っている方に歩き始めた。三人とも奈保子の方を向いて、かすかに会釈をした。少年が帽子を振った。奈保子も手を振った。)
一
その夜、食事を終えた奈保子と魚彦は話をした。
「どうだったの?試合は」
魚彦は白い歯を見せて右手でVサインをつくった。
「どういうことよ?」
「二試合とも勝ったんだ」
「へえ、よかったわね。強いのね。南町イーグルスは」
「強いさ、けどもっと強いチームもあるんだよ。でも監督がもうすぐ南町イーグルスはもっと強いチームになるって言ってた」
「よく練習やってるもんね」
「うん」
「野球って面白い?」
「うん」
「カーンってホームランなんか打っちゃうと、最高!なんて感じるのかな?」
「わかんないよ、打ったことないから。でもきっと、めちゃくちゃ嬉しいんだろうな」
「選手はたくさんいるの?」
「今は二十六人だったかな…。今日ひとりやめちゃったんだ。しょうじ君が」
「やめる子もいるんだ…」
「よその町に行くんだって」
「そう、いい選手だったの?」
「ちびっ子だよ」
「ちびっ子?」
「うん、本当はチームに入れない二年生だったんだけど」
「二年生は入れないの?」
「うん、ぼくだって特別だもの」
「どうして?」
「わかんないよ、監督が入ってもいいって言ってくれたんだ」
「ねぇ、おじさんはどんな選手だったの?」
「おじさん?」
「壬生さんだよ」
急に魚彦が壬生のことを訊いてきたので奈保子は驚いた。
「見たことなかったっけ」
「ないさ…キャッチボールをしてくれたくらいかな」
「かあさんもないの、壬生さんが野球していたところは」
「外野だよ」
「外野?」
「センターだよ、知ってる?」
「えっ」奈保子は魚彦の言葉に目を丸くした。
「かあさんが話したっけ?」
「違うよ、監督から聞いたんだ」
「どこの」
「チームのさ」
「監督さん、壬生さんのこと知ってるの?」
魚彦は嬉しそうに頷いた。
「おともだち?」
魚彦がまた頷いた。
「そうなの…」
夜半、日中の片づけ仕事をしながら、奈保子は野本という名前に憶えがないか考えてみた。思い出せなかった。壬生が紹介してくれた男友達の顔や名前を思い浮かべたが、野本という名前もあんなに大きな体をした男にも記憶がなかった。
二
夕刻、南町の通りで買い物をした。通りを歩きながら、―この辺りもずいぶん変わったと奈保子はあらためて思った。
【野本牛乳店】という看板が見えた。
(ここか…)
奈保子は店の前に立ち止まって、中の様子を窺った。店番は誰もいない。大きな冷蔵庫とプラスチックの容器が積んであるだけで人の気配がしない。
「なにか…」
背後で男の声がした。振り向くと前掛けをした大きな男が立っていた。
(このひとだ…)
「牛乳ですか…」
「いえ、わたし、桜庭と申します」
「はあ…」
「あの…桜庭魚彦の母親です。いつも息子がお世話になっています」奈保子が頭を下げた。
「そうか、桜庭君のおかあさんだ。どこかで逢ったひとだと思いましたが、ひとの憶えが悪くてすみません」野本が大きな身体を折った。
「わたし、お逢いしてませんけど…」
「いいえ、壬生先輩が入院なさっているときに一度…」
「そうでしたか、申し訳ありません」
壬生が見舞い客ひとりひとりに奈保子を紹介していたうちのひとりだろうが思い出せなかった。
「自分も今みたいにこんなに太っていませんでしたから…ところでなにかご用事ですか?」
「ちょっとお聞きしたいことがありまして…」
「そうですか、だったら奥へどうぞ、立ち話もなんですから」
「いいえ、それほどのことでもないんです」
「ああ、そうですか、じゃ、そこの公園にでも行って話しましょう」野本が店の奥に入って行った。
…
奈保子が公園で待っていると、前掛けを外した野本が急ぎ足でやって来た。
「すみません。おふくろがもう耳が遠くて、ちょっと出かけるのを説明するのが大変なんです」
「よかったんですか、店を放ったままで」
「牛乳屋は朝で仕事の半分が終わるんですよ。おやじの代のときのように、いろいろ流行ってませんから…で、お話というのは?」
こうして間近に野本に接してみると、自身が考えていた印象と彼が違った人柄のように思えてきた。
「親ばかだと思うんですが、実はわたし、先月から二度ばかり魚彦の試合を見に行ったんです」
「お見えになったんですか?ベンチの方まで来てくださればよかったのに…」
「いえ、仕事へ出かける前にちょっと覗いただけですから…そこで、わたし、魚彦の野球を見ていて」
そこまで言って、奈保子は言葉を切った。
「で、なんですか」
「ごめんなさい。魚彦は毎日野球にゆくことをわたしの目から見ても、とても楽しみにしていました。きっと野球が面白くてしょうがないのだと思っていましたから、どんな野球をしていたのかと思って出かけたんです。そうしたら魚彦は試合にも出られず、バットを片づけたりグラウンドの石を拾ったりと、なんだか可哀想になりまして…」
「そうでしたか…」野本はシャツのポケットから煙草を取り出して火を点けると、
「そうでしょうね、奥さんのおっしゃること、良くわかります。私もずっと野球をしていたんですが、私の野球に対する考えも奥さんと同じだったんです。私は子供の頃から野球選手になることだけが夢だったんです…」と煙を吐き出しながら話を始めた。
「…幸い親からもらった身体も同じ年の連中より大きかったですし、好きだったスポーツだから上達も早かったんでしょう。高校に入ったときにはもうプロ野球へゆくことしか考えていませんでした。私が一年生で野球部へ入部したときのキャプテンが壬生先輩、いや壬生さんです。上級生を先輩と呼んではいけなかった、野球部では、なになにさんと呼ばなきゃいけなかったもので…、壬生さんも県下では指折りの投手でした。でも壬生さんはエースの座を監督先生に話して私に譲ってくれたんです。私は一年生ですぐにマウンドに立ちました。スピードはあったんですが、どうも頭(ここ)が悪くて一年のときは先輩に迷惑をかけました」と太い指でこめかみを指して笑った。
「夏の甲子園地区予選に三回戦で負けたあとで、壬生さんが、私を呼んで『おまえは将来プロ野球選手になりたいのか』って言われたんです。私がそうですと返事をすると『おまえならきっとなれるよ、がんばれ』と言われてから最後に『野本、野球はいいだろう。オレは野球というゲームを考え出したのは人間じゃなくて、人間の中にいる神様のような気がするんだ。いろんな野球があるものな。お前にもそのことをわかってほしいんだ。自分だけのために野球をするなよ』って…、なにか変なことを言うひとだなって、そのときは思いました」
野本は言葉を切るともう一度煙草に火を点けた。
―つづく―