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【短編小説#13】

 一日の仕事を終えて、(【ひげくじら】にするか…)なじみの酒場の名前をつぶやいた壬生が腰を上げた時、足元から地面の唸りが湧き上がり、視界が揺れた。大きいな、刑事部屋に同僚らの声が響いた。

 その駅はさながらバス停といった趣があった。先刻、立ち寄った小物屋の店内には土産物をわずかに扱う空間があるばかりでそのほとんどが生活雑貨で占められていた。

 もはや、食指が伸びるような品物はなかった。その店の隣の定食屋の内側に暖簾はかかったままだった。海岸から続いてくる小径を流れてくる風が磯の香りを運んでくる。腕時計に目をやる。踏み切りが鳴りだす。

(来ないか…)2両の車列が小刻みに車体をくねらせながら近づいてくる。壬生は無人の改札に目をやり、スーツケースを引き寄せ立ち上がった。

 車内は客もまばらだった。壬生は海側の座席に腰を下ろして、もどかしいくらいにゆっくりと車窓を流れてゆく風景を眺めていた。

(所詮は北の果ての役人上がりオレに何ができるものか…) 壬生はボランティアの精神性の複雑さに、自らの無力さを思い知らされた。この被災地で奈保子と顔を合わせるうちに言葉を交わすようになったことがせめてもの慰めだった。七郎はこのひと月余りの時をとりとめもなく思っていた。

「ちょっとみてくる」ひかるは階段を駆け上がっていった。

「気をつけなよ」奈保子はひかるの行く先を知っていた。

 自分の買い物を終えると奈保子は3階に上がっていった。ひかるがスポーツ用品売り場で野球のグローブを見上げていた。奈保子はひかるの姿を柱の陰から見ていた。爪先立ってグローブを取り上げ、手を入れ、もう一方の手でグローブの内側を叩いた。グローブをはめた手を捻りながらそれを真剣な目つきで眺めている。ひかるはグローブを手から抜き、もの惜しげに元の位置に戻した。

 そこに親子づれらしい二人があらわれ、父親がそのグローブを取り上げると子供に与えた。子供はそれを左手にはめると父親を見上げたまま頷いた。二人はそのままレジに向かった。ひかるはあっけにとられた表情を崩すとうなだれた。(お金があれば…)その姿を見ていた奈保子はひかるに近づくのがためらわれた。ひかるにかける言葉がなかった。

「むすこさん?」声をかけたのは二人の様子を見ていた壬生だった。

「ねぇ、もう一軒寄っていかない。どうせ誰かが待っているわけじゃないんでしょう」酔いも手伝ってか、誘われるままに寄った奈保子の馴染みのスナックでのことだった。デュエットなど数曲を楽しんだ。

「もう帰るから」壬生は店のママに勘定を頼んだ。それを聞きつけたのか、男たちが近寄ってきた。

「色男が帰るって言うから、今度はオレたちとデュエットしようや、べっぴんのおねえちゃんよ」リーダー格と思しき男が奈保子を覗きこむようにして言った。

「ちょっと、ナベちゃん」ママが男をたしなめるのが早いか「しけたつら晒して調子のいいこと言ってんじゃないよ。目障りだからさっさと失せな」視線を手元に置きながら奈保子が言った。

 男は一瞬、呆気に取られたような表情を浮かべたが、「おい、こらっ!」周りの男達がいきり立ったことで威勢がついたのか、男は奈保子の肩を掴んだ。奈保子はその手を払いのけながら男を睨みつけた。

「よさないか」壬生がその手を掴んで男の背中で捻り上げた。

「貴様…」男が唸った。取り巻きの男達の一人が上着の内ポケットに手を入れたのを目の端で捉えた壬生はその男に体当たりをかました。

「逃げるぞ!」壬生は奈保子の手を取って店を走り出た。男達が追ってくる。

「あそこだ!」二人はラブホテル街のその一軒に飛び込んだ。

 シャワーを浴びてきて、飲みかけの缶ビールに口をつけた奈保子に向かって壬生が言った。

「そんなもの入れる事情があったのか」壬生は奈保子の内股を見つめた。

「壬生さん、格好良かったよ。刑事さん?」

「今は違う」

「やっぱりね…」奈保子が話し始めた。

 アスファルトを雨が強く叩く暮れ方のことだった。目の前にひと影が横切った瞬間、ブレーキを踏み込んだが間に合わなかった。徘徊する老人だった。軽トラックで荷物を運ぶ最中のことだった。

 暴力団の事務所に出入りしていたヒモのような亭主は近所の橋の袂でボロ切れのようになって見つかった。それでも生活の糧を失った。

「いろいろとたいへんじゃろう。ワシが面倒みたるけぇ」辺りの顔役の一言に乗った。その証に内股に牡丹の墨を入れた。

 その男も何者かに命をとられた。奈保子は北の街を出てこの地に来た。

(この女だ…)壬生は定年前の捜査線に浮かんでいたの女が奈保子であることを確信した。

「あんただよね。あの男をやったのは」奈保子の頬が色を失ってゆく。

「あの男の部屋を訪ねると、ひかるの服に手をかけていたの。刺す、わたし決めたの」奈保子が観念したように言った。

「…」

「もう少し待って。必ず自首するから。ヒカルに話す時間をちょうだい」

 まもなく、仮の住処での生活が始まろうとする人たちのあいだを行き来する奈保子を眺めながら七郎は思った。制服に身を包んだ奈保子は壬生を認めると小走りに近寄ってくる。

「ほらっ」上気した顔で差し出したケースの中に残った乳飲料はわずかだった。

「こんなに売れちゃった」うっすらと首すじに浮かんだ汗を手の甲で拭いながら奈保子が言った。

「ちょっと出ようか」壬生は歩き出した。

 朧んだ空と海との境に桜の季節が遠くないことを壬生は感じていた。

「帰ろうかと思う」

「…そうですか」奈保子は壬生の話を予期していたかのように小さく頷くと海を見つめた。奈保子の横顔に陽が当たって頬の産毛が金色に輝いて見える。

(このままで良いのか…)

「もう少しがんばってみます」きっぱりとした奈保子の物言いが七郎のこだわりをあっさりと断ち切った。奈保子が差し出した手を壬生はぎこちなく握り返した。

 列車が海沿いを抜け、トンネルを抜け、ひと気の失せた街なかの小さな踏み切りにさしかかった時、制服と制帽を着け、ケースを肩にかけた奈保子が自転車の脇に立って列車をやり過ごそうとする姿を壬生は見た。なおこちゃん!壬生は列車の窓を開け、体を乗り出すようにして両手を大きく振りながら叫んだ。

 壬生が懐から手をのばして振ったと思うと、新品の子供用のグローブが奈保子の上空から降って来た。

 突然の壬生の振る舞いに事態をにわかには理解できずにいた奈保子は目の前を通り過ぎてゆく列車から手を振る壬生を認めると、その場で小さく飛び上がるようにして両手を口の形にして叫んだ。

「ひかるとキャッチボールしてやってね!」

その声は壬生に届かなかった。

 数日後、暴力団の下部組織の組長殺害の犯人が自首したことが全国紙の社会面に取り上げられていたことを、まだ壬生は知らない。

―完―

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