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短編小説#42

 営業職の桜庭奈保子は昼食を外で取ることを常としていた。

 スプーン一杯の砂糖を入れて、かき回したときに立ち上がるコーヒーの香りに彼女はわれを取り戻す。

 結婚式をひと月あまり後に控えて、人生のうちで最も心躍る時期を、はやる気持ちで過ごしているはずの彼女にとって、それが式に備える繁忙に置き換えられていることに、いささか閉口気味だった。残りの僅かな独り身の自由をぎりぎりまで謳歌したいとも思っていたのにも関わらず…

 着信、メールの類に目を通したその視線を携帯電話から離したとき、店の壁にあった求人の張り紙に注意が留まった。

 そこには、【貸間:ワンルーム 家賃:数時間の労働】と書いてある。

(いまどき、貸間って…でも面白いわね…)彼女は心で呟いた。

 勤務先は、職場近くの裏通りにある古書店「紀伊国堂」とある。

「ねえ、マスター!」彼女はカウンターに向かって声を上げた。


 庇(ひさし)の上に【紀伊国堂】と墨書されたような看板を見つめながら意を決したようにわずかにうなずいた奈保子はゆっくりと歩をすすめた。

「あの…」

「なに…?」奈保子の声に、ネクタイをした店番の男は鼻にかけた一山(いちやま)の丸眼鏡の奥の細い目をのぞき込むようにして奈保子の顔に向けた。

「張り紙を見て…」

「張り紙…?」男は視線を遠くに置いた。

「喫茶店の…トロントの求人の張り紙です」

「…あ、あれ…か、あのオヤジまだあんなものを…」のど仏の動きが映る首のしわが老人のそれを思わせた。

「あんたところで…」忌々しそうに男は立ち上がると帳場を降りてきた。

「ずいぶん若いね」奈保子の頭ひとつくらい背が高い。

「そうでもないです。こう見えても、もう三十ですから」

「もう…かね」奈保子は自身を見つめる男の視線がこころなしか遠くにあるように感じる。油気がなく半分ほどが白くなっているせいで、見た目には白さが際立った髪には櫛が通っていない。

「…もうです」

「そうかね、…で、なに?」ほうれい線がはっきり刻まれた口元がゆっくりと動く。

「あんたOLかね?」男の視線の強さは年寄りのそれではないように思われた。肌の張りも艶もそう思えた。

「そうです」

「じゃ、だめだ」

「どうしてですか?」

「住み込みが条件だ」

「…」

「帰んな…」

「仕事帰りにでもお手伝いできたらと思って…」

「冷やかしはごめんだ、帰んな」

「今日は帰りますけど、また、来ます」

「…勝手にしな」奈保子の視線の強さに根負けしたように男はうなだれて見せた。

「店番、頼んだよ」壬生七郎からいきなりレジの鍵を渡され、奈保子は留守番を申し付けられた。

「えっ!?」

「ちょっと、そこらで一杯やってくる」と言いながら雑然とした店の中を覚束ない足取りで歩いてゆく。

「あの…」奈保子は踵の高いパンプスでダンボールを蹴るようにして壬生を追う。

「どうせ客は来ないから問題ないから!あと、その靴はどうかね…?まあ、好きにしな!」壬生が声を上げた。

「…もう、なんなの!?」奈保子はダンボールを蹴り上げた。

 店は段ボール箱だらけで、商売しようとする意欲が感じられない。壬生には事務能力が著しく欠如しているのだ。

 見かねた奈保子が片付けようとするが、彼女にも整理整頓の資質は持っていないようで、何日たっても店内は雑然としたままである。

「どうしたらいいかしら?」

「そのままで構わないさ。ハハハ」彼は白い歯をみせて笑った。どうやら、彼は客が来ることを望んでもいないようでもある。

「でも、あんた、変わってるね」

「ん、どうしてですか…」

「どうしてって、なにをすき好んでこんなところにいる?」

「わたしにもよくわからないんです。張り紙に惹かれてかな…」

「そう…あんた、やっぱり変わってるわ…」

「そうですかね…」奈保子は段ボールを持ち上げた。

 「旅行に行きましょう」という奈保子の申し出に、壬生と奈保子は長野の北部にある集落を目指した。

 駅前で借りた車を壬生は器用に操りながら上り坂を走らせてゆく。

 目的の場所を示す看板を左手に見ながら狭い道路を上ってゆくと駐車スペースがあった。

 そこに車を置いて、ふたりは石仏を見ながらゆっくりと歩いて登ってゆく。

 阿弥陀堂があった。それに向かって手を合わせたあと、鳥のさえずりと川のせせらぎが聞こえるほどの静けさの中、杉並木の歩みをさらに進めると、棚田を見下ろす風景がふたりの目の前に広がった。息を呑むほどのその美しさに言葉を失ったかのように奈保子が立ちつくした。

 欠け始めた視野に収まる風景と、

「すごい…来てよかったわ、ちょっと脚、痛いけど」踵の高いパンプスを片手に持ちながら、隣でそう呟く、春の陽差しに光る奈保子の顔とを、壬生は交互に見返した。

 街まで下りてきたふたりはホテルの部屋に入ると唇を合わせた。

 そのままベッドに倒れ込むと壬生の指が奈保子のスカートの止め金をはずし、ストッキングにかかった。

「ちょっと待って」奈保子は唇をゆっくりと離すとベッドに腰をかけた。

「おねがいがあるの。今日は普通じゃイヤなの…」奈保子が潤んだ目を向ける。

「どうしたの…?」

「今日を最後にしたいの…」

「最後…?」

「また明日からは普通にもどらなきゃ。結婚して、子どもができて、仕事に戻って…極めて普通の奥さんとお母さんになって、歳をとって、そうなったら、もうどこの男性にも見向かれなくなるの…」

「何だ、いきなり…」

「最後…、だから*って…」奈保子は両手を背中で組んだ。

「…」壬生は慣れない手つきでネクタイを奈保子の手首にまわした。

 「この頃のわたしってほんとうに変なの、普通、この時期だったら嬉しくてたまらないはずだけど…なんか、現実に結婚となると、生活が変わったり、なんだか責任感みたいなものがわいて来ちゃって…憂鬱なんです」

「だったら結婚なんてやめたらいいじゃないか、ここでオレと本屋をやればいい…」窓から差し込む傾きかけた春の陽が壬生の足元に伸びている。

「ううん、気持ちはありがたいけど…でも、あのひと嫌いじゃないし、結婚しなくてもいいとは思い切れないの。したほうがいいかもって…」奈保子は私物を纏めはじめた。

「…」壬生は奈保子の仕草を射抜くような視線で見つめた。

 結婚して二年が過ぎたころ、奈保子は歩き始めた長男の手を引いて【紀伊国堂】を訪れた。

「あっ…」目にした光景に奈保子は小さく声を上げた。

 クレーン車が看板にその硬い爪をかけると木造の梁ごと引き剥がした。

 激しい音に耳を塞いだそのとき、誰かの手が肩に置かれたのを感じて振り向いた奈保子に「ひさしぶりだね」そう声をかけたのは白杖の壬生だった。

―おわり―

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