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【短編小説#38】

 電話機のダイヤルに指をかけ、壬生七郎は激しく躊躇い(とまどい)、躊躇い続けながらダイヤルを廻した。

 受話器の中で、相手の電話機を鳴らすベルの音が小さく聞こえ始めた。彼は電話を切ってしまいたくなる。ベルを鳴らしている電話機の周囲の様子が少しもわからないことが彼を不安にさせた。たとえば、その電話機は居間の整理箪笥(だんす)の上に置いてあり、ベルが鳴れば桜庭奈保子が立ち上がって受話器を取り上げる、ということがわかっていれば、その不安は幾分かは減るに違いない。木曜日の昼間の時刻だから、彼女の夫は会社に出ていて留守のはずだ。

 相手の受話器が取り上げられる気配は、なかなか伝わってこない。待つ時間が苦痛で、壬生は電話を切ろうとした。久しぶりに奈保子に電話する機会ができたのだ。

(いったん切ってかけ直そう…)

 改めてダイヤルに指をかける瞬間のことを思うと気が重いが、この機会を逃すことはできない。

 その瞬間、相手の受話器が外された。

「もしもし」若いとはいえない女の声が聞こえてきた。奈保子の声ではない。

「神崎さんのお宅ですか」その姓を口にするとき、壬生は暗い苛立たしい気分になる。奈保子が嫁いだ男の姓を口に出すのは不快だった。

(電話の声は義母の声だろうか…)そうだとすると、この女の育ちが疑われる。受話器を外してすぐに、『神崎でございますが…』と言うような習慣があれば、その姓を彼が口に出す必要がないのだ。

「神崎さんのお宅ですか」

「はい」

「奈保子さんはおられますか?壬生といいますが」

「ちょっとお待ちください」

 しばらく間があって、奈保子の声が聞こえてきた。

「壬生さん、お久しぶりね。どうしたの…」弾みのない鬱陶しそうな声である。

「ぼくが電話をかけるときの要件は決まっているはずだけど…それとも別の要件で電話してもいいのですか?」

「…何年になるかしら」

「まだ、三年ですよ」それは詰問する口調ではなく、愚痴を言う調子である。

「そうでしたわね」彼女は前と同じ口調で答えた。

「来週の火曜日が命日ですから、その日にお宅へ車でお迎えに行きましょうか?」三年前までは某(なにがし)の家の近くにある駅で待ち合わせていた。

 彼女はちょっと考えてから、

「…そうしていただこうかしら。でも、わたしの家の場所、わかります?」数年前、彼女の家を苦労して探し当てたため、付近の地図は鮮明に彼の頭の中に刻み込まれている。

「さあ…大体の道順を教えてもらいましょうか」壬生は白々しく言った。

 火曜日、壬生が奈保子の家のベルを押すと、すぐに外出の支度をした彼女が出てきた。

 彼女はひざ丈の短いワンピースの礼服を着ていた。彼女は背を向けると玄関の扉の鍵を廻した。

 礼服の裾から伸びる脚を包んだグレー色のストッキングの伝線の跡が踵(かかと)から脹脛(ふくらはぎ)に向かって伸びていることに気がついた彼は、それを伝えようとする言葉を飲み込んだ。

 車は壬生が勤め先の会社から呼んだハイヤーである。

「壬生さん、再婚なすった?」

「いや、まだです」部下の某が交通事故で急死し、その三回忌が過ぎた頃、奈保子が結婚した。その後まもなく、彼も結婚したが、一年後、妻と死別した。

「奈保子さんは、お子さんは生まれましたか?」

「いいえ」

「それは寂しいですね。不思議だなあ、どうして生まれないのだろう…」

「そんなこと言っても無理よ、ご存知なかったのね」

「え?」

「神崎は死にましたわ」

「えっ?」

(その声は歓声に似ていなかっただろうか…)と彼は思い急いで沈痛な声をつくって言った。同時に彼は考えた。

(男と女が身体を合わせるのにはそれほど時間は要らない。時間があったら躊躇いがあってそういう関係にはなりにくい…)

「知らなかった。やはり、交通事故かなにかですか」

「狭心症です」

「そうでしたか、何時(いつ)のことです?」

「某さんの七回忌の翌年だから…でも、壬生さん、少し、しつこいのじゃないかしら」

「え?」

「十三回忌にまでいかなくってもって思うの。死んだ人は、もう死んでしまったのだし、残された人達には、その人たちの生活があるもの」強い口調で奈保子は言う。

「わたし、結婚してからは某さんの命日にはいきたくなかったのよ。でも壬生さんが無理やりに誘うのだもの」

 しばらく二人は沈黙した。やがて、彼が思い切り悪く言った。

「しかし、今日でおしまいだから」

「そうね、今日でおしまいね」

「あ、運転手さん、そこの花屋の前で、ちょっと停めてください」彼は車を降りて花屋に入り、白い菊ばかりの大きな花束を抱えて車に戻った。

「花は、やはり奈保子さんに持っていてもらいましょう。そのほうがよく似合う」

「白い菊ね、いつも白い菊ばかりだったわ…」彼女は膝の上に載せた花束の上に俯き(うつむき)、幾分しんみりとした口調で言った。

 一周忌のとき、彼は花屋で色々の花を取り合わせて花束をつくってもらおうとしたとき、彼女が、(白い菊ばかりで…)と言ったのだ。

 その一周忌では、某家の仏壇の前で奈保子は涙を流した。葬式のときには涙のために彼女の瞼は腫れ上がって、はっきり眼が開かなかった。

 奈保子は某と結婚することになっていた。某が死んだ歳は三十二歳、彼女は五つ年下である。某が死んだ後、壬生は緊張し、期待したが、結局、彼女は他の男つまり神崎と結婚した。そして、彼が奈保子に会うことができるは、某の法事のときだけとなった。

 壬生と奈保子が乗った車は、某の家の近所まで来て道に迷った。

 ようやく、目印の薬局を見つけ、彼と奈保子は車を降りた。

 薬局を一軒置いて隣が某の家のはずである。

 しかし、そこは空き地になっていて、壬生の記憶にある古びた二階家はなくなっていた。その空地には最近、整地した跡が残っていた。

「帰りましょう」

「…もう、この花はいらなくなったようです。奈保子さん、持って帰ってください」

「わたし、いらないわ」そう言って、奈保子は彼の腕の中へ、その花束を押し戻した。

 車の中に戻ると奈保子は先刻と同じようなことを言った。

「死んだ人は死んだ人よ。残った人には、その人の生活があるわ」それは彼女が自身に確かめている言葉のようだった。

「壬生さんは、やっぱり、しつこすぎたのよ」咎める声である。

「そうかもしれない」壬生は膝の上に眼を落とした。

 そこには、先刻、彼女に押し戻された大きな花束が横たわっていた。

「…」

「…」沈黙が続き、車は走り続けた。

「あ、そこで停めてちょうだい」運転手は車を路肩に寄せると停めた。その街角は奈保子の家とは、かなり離れた場所である。

「わたし、ちょっと寄り道してゆきます」

「そうですか」運転手がバックミラーから壬生の眼を覗いた。彼はそれに眼で頷いた。

「壬生さん、さよなら」奈保子が片脚を路面につけた。

「さよなら」

「…」奈保子は彼に眼もくれずに車を降りた。

「車を出してくれ」彼は運転手に命じた。

 車は壬生一人を乗せて走り出した。

 彼は座席に背をもたせて眼を閉じた。遠ざかってゆく奈保子の後ろ姿を振り返ることもなく、伝線したストッキングのことを彼女に話さなかったことを悔いていた。

(酒を飲みにいこうか…)と一瞬思ったがやめた。早く家に帰って横たわりたい気持ちが強くなった。

 車は彼の家の前で停まった。

「あ、部長さん、お忘れものです」運転手に言われて、彼は花束を抱え取った。

 壬生はポケットから鍵を出して、玄関の扉を開けた。

 机の上に投げるように置いた花束を彼はしばらく眺めていた。

(よそよそしい花だな…)彼は呟いた。

 翌朝、会社にゆく支度を済ませた壬生は、鞄を提げたまま部屋の中で立ち止まり、机の上に眼を落とした。

 そこに横たわっている花束の中からその一茎を片手で引き抜いた。

 茎の上に高く首をもたげている白い花を彼はしばらく眺めていた。歯を噛みしめ、唇を次第に左右に押し開く。俄に(にわかに)その花に喰いつき、花の半分を齧り(かじり)とった。

 口の中いっぱいに膨れ上がってゆく花弁を押し出すように吐き出し、(しつこすぎる…か)彼は呟いた。

―おわり―

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