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【短編小説#20(終話)】

十三

 亜希子は六十の半ばを過ぎているものの、なかなかの美人で、彼女を目当てにやってくる客も少なくなかった。それに合わせて、壬生の腕が確かなこともあってか、店は賑わっていた。

「皮肉なものね。おとうさん、やきもちやかないかしら」カウンターの中から亜希子はおどけたような表情で言った。

(お店がうまくいっているからかしら、それだけかしら…)

 武美が逝く前に比べて、亜希子が華やいでいるように奈保子には映った。

(一周忌も過ぎないうちに…)

 そんな亜希子を苦々しく思った。というのも、奈保子は亜希子の壬生に向ける恋情のようなものを疑った。仕事も男も同時に失った奈保子の自身のやるせなさの矛先が理不尽にも亜希子に向かった。

「かあさん、ご機嫌でいいわね。疲れたから、わたし先にお風呂もらうから」

「なおこ」奈保子は亜希子の声を背中で聞きながら框をあがると居間を横切って風呂場に向かった。

 奈保子はシャワーの栓をひねる。髪を後ろで束ねて、壁の留め金にシャワー掛けたままにして湯をうなじにあてる。両手を首の後ろにあてたまま反対側に体の向きを変える。シャワーの湯を乳房の先にあてつつづける。体の芯のようなものが熱くなってゆくのを感じる。指先を乳首にあてる。小さく声が漏れる。奈保子はゆっくりと崩れるように腰を落とした。

(いやらしい…)

 奈保子はそう呟いて自身を辱める言葉で自身の存在の確かものにしようとした。

十四

「ありがとう」亜希子が蛍光管を受け取ると、

「わたしがやりましょうか」カネを受け取りながら、なじみの電気屋の店員が言った。

「だいじょうぶよ、このくらい」

「そうですか、それじゃ」店員はカウンターの中の壬生に頭を下げると店を出て行った。

「壬生さん、裏の物置に脚立があるから取ってきてもらえないかしら」亜希子が声をかけた。壬生は頷くと板場から裏庭に回り、脚立を運んできた。

「おかみさん、わたしがやりますから」

「このくらいのことは、わたしがしなければ。壬生さん、それじゃ脚立を押さえていてくださらない」蛍光管をつかんだ亜希子が脚立の上に立つと、壬生が脚立を押さえた。

 両端が黒ずんだ蛍光管をやっとのおもいで外した時、あっ、亜希子が小さく声を上げながら体のバランスを崩した。おっ、壬生が亜希子の体を受け止めながら尻をついた。いっ、痛っ、久美子が足首を押さえながら顔を歪めた。

「おかみさんっ!」壬生は崩れ落ちそうになる亜希子を抱えるとゆっくりと床に下した。

「救急車呼びましょう」壬生が横座りになった亜希子の肩を抱いた。

「だいじょうぶよ、大げさな」顔を歪めた亜希子の額にはうっすらと汗が浮かんでいた。

「そうはいっても、これじゃ…」

「板さんっ、なにしてるの」その時、職探しから戻った奈保子が叫んだ。

「ねえ、ちょっと起こしてくれる」亜希子の声に隣で暗い天井を見つめていた奈保子は体を向けた。

「どうしたの」

「おトイレ」奈保子は起き上がると明かりを点けた。奈保子は亜希子の脇に両腕を差し込むと亜希子の体を起こした。

あ、痛っ、亜希子は顔を歪めて腰を押さえる。

「わるいわね」

「…」奈保子は答えずに亜希子を促すようにトイレに向かって歩き出す。亜希子はおぼつかない足取りで奈保子を追ってゆく。

「ここで待ってる」奈保子の無表情を窓から差し込む月の光が青白く照らした。

「だいじょうぶよ。ひとりでもどれる」ドアの鍵がかかるのを確かめると奈保子は寝室に戻って布団にあぐらをかいた。

「男の人にまかせたほうがいいのよ、そういうことは」

「そうね、壬生さんが、わたしがするから、っていってくれたのをわたしが断ったのがいけなかったわ」奈保子は近くの整形外科から戻ってきて明日の入院の支度をしながらした亜希子との会話を思い出していた。壬生に対する得体のしれない不信感が奈保子をいら立たせていた。

(仕事ぶりは悪くない。でも…くせ者、そうくせ者なのよ…)

 それ以上に、壬生を無条件に使用人以上の信頼感を置いているような久美子に不快感を覚えていた。

「なおちゃん」廊下の奥から久美子の声がした。奈保子はあぐらを解くと立ち上がった。

「壬生さん、少しのあいだ店を開けるけどよろしくお願いしますね。それと、奈保子、慣れない仕事だから何かと面倒見てあげてほしいの。ね、お給料もう少し上げますから。ご面倒かけますけどお願いします」奈保子に抱えられながらタクシーに乗り込んだ亜希子が頭を下げた。

「ランチは臨時休業ということにしてください。わたしは昼には戻れると思います。これからのことはそれから話しましょう。それじゃお願いします」そう言いながら奈保子もタクシーに乗り込んだ。タクシーが視界から消えるまで壬生は店の前で立っていた。

十五

「今日はなおちゃんなんだ。おかみさんは?」年嵩の常連客が聞いた。「けがをしたもので、しばらくわたしがピンチヒッターということで」

「けがって、どうしたのよ」

「大したことはないんです。足腰を少し…」

「そう、ピンチヒッターってことは二三日したら、おかみさんは戻ってこれるってこと」

「そうだと思います」

「ふーん、それで…」男が話を続けようとした時、別の客が入ってきた。

いらっしゃいませ!奈保子は男に背を向けると入り口に向かって声を上げた。

「器が熱いとダメ。ラーメン屋さんなんかで素手のままどんぶりをもってくるひとっているじゃないですか」壬生は微笑みながら黙ってうなずいた。

「わたし、今まで知らなかった。こんなことでもお店やるのって大変だってこと。学校を出て、そのまま勤め人になったから…お客さんからお金をいただくことがこんなに大変なことだなんて」アルコールが入ったことで壬生に対する奈保子の警戒心が薄らいだ。

「でも、会社に勤めていると、お客さんからじかにお金をもらえることなんてそうないでしょう。それがこんな商売のいいところじゃないかな、仕事している実感をもてるからね。会社員って組織の歯車なんていわれるけど、よく考えてみたら歯車にさえなっていない人も多いんじゃないかな。自分がどれだけ会社の役に立っているのからなんてわからなくなってなったりしてね。でも、一所懸命に仕事していたら、役に立たない仕事なんてないですよ」壬生は帽子の跡が残った後頭部をさすりながら言った。壬生は奈保子をまっすぐに見つめた。

「そうかしら」

「すみません、説教じみたことをいってしまいました」壬生は壁の時計を見やった。

「もうこんな時間だ。このあたりで失礼します」壬生はゆっくりと立ち上がると小さく頭を下げた。テーブルに置いた帽子を取り上げると上っ張りを脱ぎながら裏口に向かって歩き出した。

「壬生さん」奈保子は壬生の背中に声をかけた。

「おやすみなさい」

「どうも」壬生は足元に置いたボストンバッグを取り上げると店を出て行った。

―おわり―

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