短編小説#19
一
その日、壬生七郎はとても疲れていた。
乗り換えの階段を駆け上がると乗り換え列車の発車を知らせるメロディーが止んだ。列車が発車する駅員のアナウンスが続く。両手を膝に置き.
―ちっ、舌を打つ。呼吸が静まるのを待つ。
顔を上げると平素は行列の出来ている洋菓子屋が店を閉じようとしていた。
(奈保子が好きだったな…)
彼は腕時計に目をやった。次の発車時間まで十分あまりの余裕があった。
(買えるな…)
他に客はなかった。
身体を起こし、店のカウンターに近づいたとき、腕を組んだ酒に酔ったらしい二人の若い女が足取りの怪しいまま、知ってか知らずか彼の前に割り込んだ。
えっと~…その一方が店員に声をかけた。
事(こと)が起こると厄介な酔っぱらいを相手にする気も起こらず、彼はあっさりと順番を譲った。
えっと~…語尾を伸ばしながら注文を決めかねていることに彼は苛立った。
その店はひと組みずつ客を相手にする仕掛けになっているようで、二人の店員の一人は持ち帰りの時間、箱の選択、中身の確認といったマニュアルに忠実に二人の酔客を相手にしている。
列車の発車時間が近づいてくる彼の焦りが酔客とその店員に対する苛立ちから怒りに変わりかけている。
もう一方の店員が彼の様子に気づいたのか、視線が客と彼とに交互に動く。
注文の条件が決まったのか、酔客は財布を取り出そうとしてバッグの中を探し始めたが見つからない様子で二人は目を合わせている。二人の笑みが歪んむばかりで、全く埒があかない。
ついに、しびれを切らした彼は―ちっ、音が聞こえるほどに舌を打つと列を離れた。後には数人の列ができていた。
彼がホームへの階段を降りかけたところ、お客さま、先刻の店員が追ってきて声を上げた。
彼は足を止めて声に振り向くと薄く目を閉じて店員を見つめた。
「あの、前のお客さま、終わりました」後に並んだ客が二人のやりとりを眺めている。
「モタモタしやがって」彼はその店員を罵った。
店員は泣き出しそうな顔をした。
「もういいっ」彼は階段を駆け降りるとそこに滑り込んできた列車に乗り込んだ。
(言いすぎたか…)
車窓に映った自身の顔がまるで、不機嫌で内気で、猜疑心の強い指名手配犯のように見えて重い気分になった。
窓の外を見上げると、列車と並行して走る月に奈保子の顔が浮かんだ。
(まっすぐ帰れないな…)
彼は呟いた。
二
隣に立つ女が引き込まれるように一歩前に…ゼンマイ仕掛けの人形のようにぎこちなく二歩目を踏み出した瞬間に壬生の身体が動いた。
これ以上ない、といった金属が激しく擦れ合う誰しもが耳を塞ぎたくなるほどの警笛を鳴らしながら貨物列車が通り過ぎて行く。
「大丈夫か?」女のかすかに開いた瞼の中の黒目が内を向いている。
「おい、大丈夫か?」壬生が女の体を揺すと女は痙攣を起こしたように全身を一度震わせる。
黒目が壬生と合う。女の表情に恐れが広がってゆく。
「…」女が無言のまま両手を突き出した。
「なにするんだ」腰から落ちた彼が声を上げる。
後ろに並んだ客に緊張が走る。
「イヤだっ!」女の声に嫌悪の感情が混じっている。
「おい、あんた」頭の上から男の低い声がする。
「誤解だっ!」壬生は振り向くようにして声のする方を見上げた。
「どうしました!」駅員の声にひとの列がバラけた。
「お客さん!」
「駅員さん、そのひとは駅から落ちそうになったその女のひとを助けたんですよ」彼の腕を掴んだ駅員に向かって若い女の声が飛んだ。
少しの緊張を抱えたままに職場に通う月曜日の朝の貧血によるふらつきが原因だった。交番で女は自身が混乱していたことを詫びた。
その場を取り巻いていた通勤客の中に壬生の落ち度のないことを証言してくれた女がいた。
「助かった、お礼がしたい」窮地を救ってくれた女、つまり、この春の人事異動で部下になったばかりの桜庭奈保子を彼は食事に誘った。
彼女は意外なほどに彼の申し入れを承諾した。
「承諾」とはもはや正しい表現ではない。店を指定してきたのは彼女だった。
「とってもうれしいです。どうせなら、Pホテルの地下のNというロシア料理のお店に連れて行ってください」
「新宿か…」
「ひとめにつかないほうがいいでしょう」
「まあ…」まったく立場が反対になっていることに壬生は歪んだ笑みを浮かべた。
三
「お誕生日おめでとうございます」ワイングラスを合わせながら奈保子が言った。
「どうしてぼくの誕生日を」
「だって、ここの前まで人事にいたから、課長の生年月日くらいはね」奈保子は壬生の心の中を覗き込むような視線を向けた。
(くらいはね、か。油断ならないな…)壬生は奈保子の視線を受け止めながら、娘の始子が生まれて人事部を訪れたとき、手続きを頼んだのが奈保子であることを思い出した。
「プレゼントを用意しているんですけど、あとで受け取っていただけますよね」
「あ、ああ。悪いな」(-悪くないよな…)
「約束ですからね」
「わかった、わかった」彼はグラスのワインを空けた。
…
「酔ったよ」ワインがが効いてきた。
「もう少しわたしに付き合ってちょうだい」空になった壬生のグラスに奈保子がワインを半分ほど注いだ。
「そんなに強くないんだから…(強いな…)」微かに目の周りが桃色に染まっているだけで言うことも身体の動きも食事が始まるまでと奈保子に変わった様子は見られなかった。
(まずいな、ちゃんと帰れるかな…)
「そろそろプレゼントわたそうかな」奈保子が上目づかいで壬生を見つめる。
「いいのかい?」
「ええ、でも必ず受け取るって約束でしたからね」奈保子が何かを包み込むようにしていた両手を開いたそこには上階の部屋のカギがあった。
(―約束か…)壬生は観念した。
「うだつのあがらないおじさんをからかっちゃダメだよ」
「そんなことないって、早川さんから聞いているわ。壬生さんて結構悪いひとって」
(はやかわが…)壬生は苦虫を噛み潰したような表情を作った。
「危険な男に女って惹かれるところがあるのよ」奈保子は遠くを見た。
四
意匠設計の会社に勤めていた奈保子と一緒になったのは四十になろうとする頃だった。
大型のスポーツ施設の建設プロジェクトに関わったときに二人は知り合った。
デザインコンペの場に居合わせたゼネコンの営業課員だった七郎は神崎亜希子の洗練されたプレゼンを行う姿に惹かれた。
七つ違いの二人が一緒になって二年が過ぎて始子が生まれた。
亜希子はそれを機に仕事を辞めた。
家庭を顧みずに仕事に耽る七郎と子育てに全力を注ぐ亜希子との間に身体の溝が生まれた。
…
「おまえ知っているか?」同僚の男が別居している亜希子に男がいることを伝えてきた。
かつて亜希子が勤めていた設計会社の若い男の名前を上げた。
仕事柄、その男と何度か顔を合わせたことがあった。
(あいつが亜希子と…)
七郎は亜希子とその男に嫉妬ではなく怒りを覚えた。
離婚は、始子が両親が修復しようのないわだかまりを抱えていることを理解するようになってからにしようと二人は決めていた。
(潮時か、子育てが忙しいからオレを求めないのではなく、オレだから求めないのだ。奈保子はオレではなく、あの男を選んだ。あいつも女だ。それだけのことだ。だったらくれてやる)
七郎は心の中でうそぶいた。
怒りが具体的な行動に出る前に別れることを決心した。
五
仕事に耽るとはいっても、上にも下にもへつらわない態度が壬生の出世を縁遠いものにしていた。
時に建築の現場では施工を円滑に進めるために近隣対策と称して幾ばくかの金を用意することがある。彼はその役割が肌にあったのか地回りといわれる土地土地のヤクザとの付き合いを深めていった。
堅気と極道との境を行き来するうちに彼は自身が会社の捨て駒であることを自覚した。
その一方で、会社の弱みを握っていることで一定の立場を保っていた。しかし一線を越えるほど彼は愚かではなかった。
あるとき、現場がこじれて工事に支障をきたした。いわゆる、近隣対策が中途半端だった。
「あんた、いい年こいてそんなだから儲けが上がらないんだよ」壬生は所長の無力さをなじると、部下であるに早川に土地の顔役の事務所まで車を運転させた。
古めかしい雑居ビルの前に車を止めた。
「一緒に行きますよ」
「こういうのは、ひとりのほうがいい。五時になって出て来なかったら、警察に連絡してくれ」
「会社には…」
「会社に何ができる?」壬生は笑った。目は笑っていなかった。
…
二時間ほどして壬生が出てきた。
壬生に続いて見るからにやくざと思しき男が入り口まで見送りに出てきた。男が掛けた声に振り向くことなく、壬生は片手を上げて答えた。
「どうでした?」
「収まったよ」
「…」壬生は煙草に火を点けると大きく吸い込んで、天井に向けて煙を吹き上げた。
「あの、禁煙ですけど」壬生が早川を睨みつけた。
六
社屋から吐き出された人達の中に親しげに話しをしながら並んで歩いてくる奈保子と早川の姿があった。
「課長」人の流れに逆らって職場に戻る壬生に気づいた奈保子が声をかけた。
「…」壬生は奈保子と早川を交互に見た。
「キミたち…」
「お疲れさまです」奈保子が片目を閉じた。
「これからごはんに行くんですけど、課長もいかがですか?っていうかごちそうしていただけませんか」奈保子がいたずらっぽく言った。早川が奈保子を見た。
「珍しいね、壬生さん」職場に近い居酒屋だから見知った顔が声を掛けてくる。
「キミたちができているとはね」壬生が不思議そうな表情を浮かべると、
「できてるってなんか下品」横に座った奈保子が頬を膨らませる。
壬生の向かいで不機嫌な赤い顔をしている早川に一向に意に介す様子もなく、テーブルの下で自身の脚を壬生のそれに絡めてくる。酒場にいる間中、奈保子はほとんど壬生を見ていた。
…
「課長、ごちそうさまでした」奈保子が言った。
不機嫌な表情のまま早川が頭を下げた。
二人とは反対方向に歩き出した壬生は後ろを振り返った。腕を絡めた奈保子が早川に頭をもたせて歩く姿に壬生は嫉妬を覚えることはなかった。
七
資産家への不動産活用の提案に行った帰りの喫茶店は大方、埋まっていた。
「もう、刺激を受けないんです。あのひとからは」席につくなり話し始めた奈保子は息を吐いた。
「生き方とか、考え方とか…あとセックスも」
「そういう面倒くさいことまで求められる早川も災難だな。真面目、それでいいじゃないか」ウエイトレスが壬生と奈保子の前にコーヒーを置いた。
壬生は店を満たした煙草の香りにひと心地ついたような気分になった。
「吸ってもいいんですよ」奈保子は唇の前で人差し指と中指を立てた。
「吸わない」
「ウソ。匂うもん」壬生が自身の腕や胸元を嗅ぐ仕草をする。
「店のにおいだ」壬生がムキになる。
「肌と口のにおいでわかる」
「…そっちか」壬生が煙草に火を点けると奈保子が話を続ける。
「それなら、彼と別れたらいいじゃないか」
「…でも、彼と別れたって壬生さんと一緒になれるわけじゃないですか」
(女房とは別れた…)壬生は言いかけた言葉を飲み込んだ。
「…」
「やっぱり、そうでしょ」奈保子の表情に悔しさが滲んだ。
「あっ、こんな時間」奈保子が腕時計に目をやった。
「課長、今夜つき合ってくださいね。したいんです。いつもと違うこと」亜希子は伝票をつかむとレジに向かって歩いて行く。
(いつもと違うこと…)ネイビーのストッキングに包まれた奈保子の脚の艶めかしさに壬生は妙な興奮を覚えた。
窓の下では、失せずに残った霧の中でターミナル駅を行き来する新幹線や在来線の列車が輪郭を曖昧にした幾本もの光の筋を作っていた。
その様子を見つめながら亜希子が言う。
「わたしにだけ淋しい思いをさせるなんてずるい」奈保子の瞳が潤んでいる。
「今日のキミはどうかしている」
「どうもなんかしていないわ。あなただけ、自分の都合のいいときだけ、わたしを抱いて…」
「そんなつもりはない」
「じゃ、何なのよ」
「わがまま言わないでくれ」壬生が奈保子の肩を抱く。
「愛している。キミを離さない」
「壬生さん、優しすぎるよ」
「…それじゃ一体、キミはオレにどうして欲しというんだ」壬生は体を離すと語気を強めた。
「ごめんなさい。分からず屋のわたしを叱って」
「叱ってって言われて叱れるものか。いいからシャワーを浴びてきなさい」
「イヤ、このまま乱暴にして××××××××××××××××××××、×××××××××××!」
「キミ、そういう気(け)があるのか…」奈保子は熱をもった瞳を向けると、自ら床に腹這いになって背中に手を回した。
「…」壬生は無言のまま、その姿を見下ろしながら、ネクタイを外し、奈保子の両手首を縛り、ズボンからベルトを抜いた。
八
壬生は煙草に火を点けると大きく吸い込んで、天井に向けて煙を吹き上げた。
「あの、禁煙ですけど」壬生が早川を睨みつけた。
「なんだ。こんなところに呼びつけて」壬生は助手席側の窓の外を見た。
「奈保子のことです」早川の声が微かに震えている。
「奈保子って、桜庭くんのことか。結婚でもするのか、また祝い金か」壬生がちゃかすように言う。
「真面目に訊いてください」
「…」壬生が顔を向けた。
「奈保子にかまうのはやめてください」早川の目には怒気が宿っている。
「何を言っているのか、理解できない」壬生が吐き捨てるように言う。
「とぼけないでください。奈保子の身体に幾筋ものあざのような跡があるので確かめたら、課長に頼んでしてもらったって。それに、あなたには満足できない、とまで…」早川は言葉を詰まらせた。
「…もういいか」壬生は早川の言葉を待たずに車の外に出た。
九
「わたし、やっぱり彼と一緒になることにしたの。真面目すぎるところもあるけど、相性みたいな…」そう言った奈保子の表情は今日の晴れわたった秋の空のように晴れやかだった。
「わたし、壬生さんのこと好きだった。格好良かったし…」奈保子は長いスカートを翻して背を向けると踵を鳴らしながら走っていった。
乾いた風が銀杏の木を揺らした。枝から放たれた黄色い葉が舞った。
(一緒になろう)そんな言葉を用意していた壬生はゆっくりと落ちてくる葉を見ながら、
(こんなものか)自嘲した。
十
覚束ない足取りを運ぶアパートに続く道の先に部屋明かりが見える。
(亜希子だ)壬生は確信した。
(やっぱり帰ってきたか)女房が戻ってきたことに有頂天だった。
彼は鉄階段を駆け上がると勢いよくドアノブを引いた。
その瞬間、彼はドアの激しい抵抗にあった。
暗澹たる心持ちになった彼は鍵穴をゆっくり回してドアノブを引いた。
部屋の中には起き抜けのままの布団が横たわっているばかりだった。
(そんなはずないか…)彼は点けっぱなしの蛍光灯の紐を引き、深く息を吐くと力なくその場に横たわった。
始子の父兄参観への出席の可否をたずねる亜希子からのメモ書きが文机の上におかれていることを壬生はまだ知らない。
―完―