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【短編小説#27】

 神崎武美が失踪した次の年の年賀状に壬生七郎は違和感を抱いた。

 いつもの神崎の添え書きはなく、茨城県から台東区へ移り住んで保険の外交の仕事を始める旨が桜庭奈保子の几帳面な文字で綴られていたのである。

 背中から当たった暮れ方の陽が二人の足元から斜めに長い影を作っていた。

 小さな歓声に顔を向けた奈保子が足を止めた。

「あっ、武美さん」

「えっ」壬生も奈保子と同じ方を向いた。

 フライを捕った外野手に向かって投手が拳を挙げていた。

 ゆっくりと近寄ってきた捕手に握手を求められると投手は手を差し出した。

 捕手の口がいくつか動くとそれに合わせるように頭が小さく動いた。

「あのキャッチャーのひと」奈保子が顔を選手に向けたまま言った。

「よくわからないな」一塁側のベンチに向かって歩き出した捕手の背中から当たった陽が彼を影にしていた。

 壬生が柵に近づくと奈保子を手招きした。

 近づいてきた奈保子の表情が歪んだ。

「いこ」奈保子は小さく首を振りながら片目を閉じた。

 大学選手権での優勝が懸かった試合が終わったばかりの外苑前駅の降り口は応援客で一杯だった。

 酒に酔った学生らしき一団が声を上げていた。

「変わりないわね」奈保子が懐かしむように言った。

「あんなに騒いでいたかな」

「そうよ。もっとひどかったんじゃない」

「…そうかもしれないな。掴み合いをしているのもいたしな」

「そうよ…あれ?」奈保子が改札に顔を向けた。人だかりが消えていた。

「あれだけいた人達、どこに消えちゃったのかしら」

「そうだな…メシでも食っていかないか」

「いいですよ。どこ?」

「銀座」

「景気いいわね」

「そば屋。景気と関係なし」壬生が顔の前で人差し指を振った。

 奈保子が薄く微笑んだ。

「落ち着いたお店ですね」店の中を見回すと奈保子は品書きを手にとった。

「改装してからは初めてだな。もっと広かった気がするが…」およそ二十年振りに訪れた店の様子の変わり様に壬生は過ぎた時間の長さを感じていた。

「…三年くらいか?」

「もうすぐ四年…」奈保子は壬生を見た。

 壬生にはその視点は遠くにあるように感じた。

 いつものとおり家を出たまま神崎武美は失踪した。

 神崎の文机には離婚届が置かれていた。

 奈保子が必要なことを書いて、認めを押して、役場に提出すれば手続きが済むように準備されていた。

 その日の数ヶ月前から見るからに筋の悪い男達が神崎を訪れるようになっていた。

 訝しんだ奈保子が理由を尋ねると、

「昔の知り合いが懐かしんでやって来る。見た目はああだが心配はいらない」と神崎は穏やかな表情で答えた。

 神崎の失踪と時を同じくして男の訪問が止んだ。

 奈保子は警察はもとより四方八方、手を尽くしたが神崎の行方は不明のまま、まもなく四年になろうとしていた。

 神崎と壬生は二人が高校生だったときに、大学の野球部のセレクションで逢った。

 都内にある大学の新人入部試験を受けるために壬生は故郷の島根県から上京した。

 試験には二百名あまりの高校生や浪人生が参加していた。

 神崎は捕手、壬生は内野手であった。

 二人はそこで知り合った。

 二百名の高校生の中には、プロ野球のドラフトにリストアップされた選手も何人か混じっていて、壬生のような田舎の無名進学校から参加した選手はよほどのことがない限り、十名あまりの合格の枠には入れなかった。

 神崎は甲子園に出場して準決勝戦までいった茨城県では名門高校の主力打者であった。

 春が来て、壬生も神崎もK大学の野球部に入部した。

 神崎は入部早々からプロも注目するスター選手になった。

 その一方で限界を知った壬生は一年も経たずに退部した。

 甲子園出場経験者の基礎的身体能力に加えて、野球に取り組む姿勢が格段に違ったことを知らされたのであった。

 オフシーズンになって大学の近くに借りた壬生のアパートにやって来ると「もう少し頑張ってみてはどうだ」退部することを思いとどまるように神崎は言った。

「自分の力もわかったしな」

「退めてどうする?」

「表向きは勉強、田舎に戻って家を継がなくてはならないし」

「家って何やっているんだ」

「旅館だよ」

「どうしてもだめか」

「ああ」神崎は落胆した表情を浮かべるとアパートを出ていった。

 神崎が奈保子を見初めたのはオフシーズンに壬生のアパートに遊びに来ている時のことだった。

 ドアを叩く音がして壬生が出てみると奈保子が立っていた。

「あっ、お兄さん」三年遅れて大学に通うために上京して壬生のアパートに住み始めた妹の亜希子を訪ねて来たのである。

「亜希子ならちょっと買い物にやらしている」

「ちょっと…待たしてもらってもらってもいいですか」

「かまわないが、友達が来ている…」

「それじゃ、どこかで時間をつぶしてきます」

「なおこちゃん、ちょっと」奈保子が戸を閉じようとするのを壬生が遮ると、「神崎」と呼びかけながら壬生は背後に目をやった。

 壬生より頭ひとつ出た体躯の良い男が姿を見せた。

「亜希子の友人の桜庭奈保子さんだ」

「神崎武美です」何かを思い出そうするようにしながら神崎がぎこちなく頭を下げた。

あっ、奈保子は大きな目を見開いて口を手で抑えた。

「どうかした?」壬生が二人の顔を交互に見た。

「どこかで会ったかなあ…」

「わたし、チアで何度か応援に…」

「そうか。それで…よろしく」神崎が手を差し出した。

 奈保子が恐る恐るその手を握り返した。

「七郎さん、彼が結婚して欲しいって…どうしたらいい」奈保子が覗き込むような視線を向けた。

「そうしてやったらいい。あいつなら間違いない」壬生は目を合わせずに言った。

「これでキミを食わせていけるメドがたった。オレと一緒になってくれないか」神崎はプロも注目するスター選手になった。

 プロ一年目からレギュラー捕手として活躍していた彼はプロポーズをした。

 学校を卒業して三年が過ぎて、保険会社の外交の仕事を通じて社会との繋がりに手応えを覚え始めていた彼女は、神崎の申し入れを素直に受け入れらるほどに子供ではなかった。

「かんたんに言うんですね」奈保子の眉根がわずかに寄った。

「野球選手の奥さんになるなら、仕事つづけられないし、それに…」

「それに、なんだ」壬生は睨むようにして言うとコーヒーを啜った。

「…もう、いいわ」奈保子は伝票を掴むと立ち上がった。

「おいっ」壬生の声を聞き入れずに会計を済ませて奈保子は店を出ていった。

 その後、神崎は優勝が懸かった試合で相手選手のスライディングをまともに受けて右手薬指を潰した。

 二年後、その怪我がもとに神崎は野球を断念せざるを得なくなった。

 奈保子は神崎の両親が営む実家の茨城の養鶏場に生活の場を移した。

 奈保子は籐椅子に腰を降ろすと、グレーの細いパンツに包まれた脚を組んだ。

「ホット」近づいてきたウエイトレスに顔を向けずに声をかけた。

 若い頃からの愛らしさに変わりはないが、彼女には、生きるうえでの図太さのようなものが備わったように壬生には感じられた。

「おひさしぶりです。呼び出しちゃって迷惑だったかしら」テーブルを挟んだ向こうの壬生に微笑んだ。

「いや、割と時間は自由になるから」

「壬生さん、支店長さんか。偉くなったじゃない」奈保子は名刺と壬生の顔を交互に見た。

「キミはどうなの」

「部下が二十人くらい」

「それは大したもんだ」

「だけど、たいへん、管理職になると…いろんな子がいてね。壬生さんも同じでしょう」

「いや、その肩書きの賞味期間は残りニ週間足らずだよ。肩叩きにあって融資先に出向だ」壬生の笑みが歪んでいた。

「そう…奥さん、なんていった?」

「女房とは別れた」

「ええっ…それじゃ、わたしと一緒だ」

「そうだな。神崎はあのままか…」

「…もう出てこないよ。十年経ったし」

「…」壬生は黙ったまま奈保子を見つめた。

「昨日、仕事休んで離婚届出してきた」壬生には神崎が女をつくって逃げるような男でないことはわかっていたから、厄介事を自分でけりをつけたうえで、もうこの世にいないように思われた。離婚届を用意したのもそのためだったのであろう。

「ところで、夜、時間あるかい?」

「ええ」

「うちに来ないか。キミのところから届いた玉子が…ひとりじゃ食べきれない」

「それじゃ、料理作ってあげる」

「そりゃ、ありがたい」壬生が頭に手をやった。

「ねえ、キスして」奈保子は消え入りそうな声で言った。

 壬生は奈保子に唇をあわせると、ブラウスの上から乳房に触れた。

 壬生が奈保子の身体に乗った時、奈保子は両手を突っ張った。

「…止してもいいんだ」奈保子は壬生を見つめたまま、その手を壬生の首の後ろに廻した。

「わたし結婚するの」

「結婚?」

「そのひとのことが本当に好きだってわかったの。わたし、幸せになれるかなあ」

「なれるさ」壬生はあお向けなると煙りを吹き上げる。

「そのひとって誰のことかわかる?」

「神崎より上等なやつだろ」

「どうかなあ…あなたのこと」奈保子はいたずらっぽい表情を向けた。

「えっ…からかうな」壬生が顔だけを向ける。

「ここに住んじゃっていい?」

「…勝手にしろ」壬生はくわえていた煙草を灰皿に押しつけると言った。

「銭湯でもいってみるか」

 春のせいか半分の月が霞んで膨らんで映る。

 壬生の雪駄と奈保子のつっかけがアスファルトに触れる音が辺りに響いている。

 奈保子の濡れた髪を温んだ空気が微かに揺らす。

 着替えの入った洗面器を抱えて、足元に視線を落としながら並んで歩く奈保子を壬生はどうしようもなく愛しく想った。

 七郎は奈保子の肩に手を廻した。

「神崎も許してくれるだろう」

「…」小さく微笑んだ奈保子の横顔を月が照らした。

 壬生は奈保子を抱き寄せた。

 街路灯が二人の影を路に長く落としていた。

―おわり―

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