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【短編小説#20(2)】

 武美の四十九日の法要が終わった。

「これで区切りだから。こうばっかりはしていられないね。お店始めないと」亜希子はまったく無邪気な瞳を奈保子に向けた。

「…」突然の話に奈保子は言葉がなかった。

「少しばかりだけど保険金が出るって。そのお金でお店直して」

「お店を直す…」

「とうさんとも話をしていたのよ」亜希子はテーブルに手をかけると勢いをつけて立ち上がった。

「かあさん、どうやって」

「どうやって、って?」

「かあさん、料理出せるの?」

「そりゃできるわよ。おとうさんと二人でやってきたんだから」

「出せるって、お客さんにだよ」

「たぶんね。そりゃ、とうさんと一緒ってわけには行かないけど」(たぶん、って…)

「だって、このままでいいわけないじゃない」

「まあ、そうだけど」勤め人の奈保子には亜希子の決心じみた判断が理解できずにいた。

「あなたがどう思っているのかわからないけど、正直いってうちはそんなに豊かじゃないのよ。食べていくためには働かなくちゃいけないの」

 奈保子は疲れていた。秩序立ててものを考えることができなかった。

「本当のところ、誰か板さんをひとり雇えたらいいんだけど…」奈保子は混乱した。

(板前って、とうさんがいなくなって、いくらも経たないのに…)

「かあさん、わたし疲れちゃった。先に休んでいいかしら」奈保子は立ち上がると亜希子の後ろを回って框を上がった。

「おやすみ」背中を向けたまま亜希子に声をかけて階段の手すりに手をかけた。

「おやすみ」亜希子の声を背中で聞きながら階段を軋ませて自分の部屋に上がっていった。

 男は時間通り現れた。短く刈った頭に日焼けした顔は肉体労働者に思わせた。

「壬生七郎です」背筋を伸ばしたまま頭を下げた彼の低い声が狭い店に響いた。

「桜庭です…」落ち着かない様子で亜希子が板場で頭を下げた。袖を折り込んだ白いワイシャツから覗いた彼の腕から先が料理人に似つかわしくない。

「あの」彼の声に奈保子が顔を向けた。

「娘さんですか」

「奈保子です」「よろしくお願いします」彼は人懐っこい笑みを浮かべた。

「かあさん、こっちに出てきなさいよ」奈保子が振り向いて言うと、亜希子は板場から頭を下げながら出てきた。

「まあ、お座りになってくださいな」亜希子がテーブルを指差した。

「それじゃ」彼は濃紺のスラックスの膝を引きながら腰を降ろした。

「どうぞ…」奈保子が冷えたお茶を差し出すと彼はそれを喉を鳴らしながらグラスを一気に空けた。彼は小さく息を吐くとスラックスの尻ポケットからハンカチを取り出して頭と首筋を拭った。

「あついでしょ」

「ええ。でもあついのは平気なほうなので、このくらいならどうってこともないですわ」彼はそう言いながらもう一度首筋を拭った。

「組合の笹川さんには感謝しています」同業者組合の役員の名前を出した。

「そうだったわね。笹川さんの紹介なら安心ですよ」亜希子は納得するように頷いた。

「それで…」

「かあさん、ちゃんとお話を伺ってからよ」奈保子は亜希子が無条件に彼を受け入れることに機先を制するように亜希子に向けた視線を彼にも向けた。奈保子は壬生という男に対して危うさを覚えていた。性的なものなのか暴力的なものなのか、あるいはその両方なのか判然としないのであった。そのわけは予め頭に入れてあった彼の履歴にあった。五十がらみの彼の職歴には五年間のブランクがあったのである。働き盛りのそのブランクは決して穏やかならざる出来事があったに違いない、奈保子がそう感じたのは自然なことである。病気かしら、はたまた犯罪か、奈保子は考えを巡らせていたが、事実、彼を目の前にして病んでいたのか、という考えは拭われた。

(良くないほうの思いが残ってしまった…)

 奈保子は自身の懸念を亜希子に話していなかった。自身はもとより亜希子を巻き込んで父親の死を一旦、脇において先入観のない判断の目を曇らすことはしたくなかったからである。

「教育学部を出られているんですね」

「ええ」彼は目を伏せた。

「先生にならなかったんですか」彼の眉根が動いた。

(いけない、余計なことを聞いてしましたかしら…)

「はい、卒業近くになって商売をしていた親父が体を壊して店を継ぐことにしたので…」

「…そうでしたか。立ち入ったことを聞いてしまって。ごめんなさい」

「いいんです。結局…」彼は何かを言いかけて口をつぐんだ。

「でも、有名なお店で板前さんの仕事をされたようで」沈黙に耐えられずに亜希子が言った。

「ええ、でも長続きしないもので…生意気だったもので渡り歩くような生き方しかできなかったんですよ」

「笹川さんは腕は確かだっておっしゃってましたよ」彼は黙ったままテーブルの上に組んだ自身の手を見つめていた。

六 

「こんなだったんだ。喫茶店なんて入らないもんでね」社屋の裏手にある喫茶店の隅に座った神崎は店の中を見回した。

 店には腕組みをしたまま目を閉じた初老の客が一人あるだけだった。

「それで何?」課長の笹川はいつものように目を合わせずに言った。

「父がなくなって四十九日が過ぎたので、また店を始めたいというもので…」

「だから何?」笹川は窓の外に目をやりながら言った。

「だから何なの。早く言ってよ」笹川の貧乏揺すりが早くなった。

「店を手伝ってやりたいと思って…」奈保子は目を伏せた。

「そう、わかった。それじゃ、総務にいって手続きしておいて」笹川はコーヒーを運んできたウエイトレスがテーブルに置こうとするコーヒーを取り上げるとおもむろに口に運んだ。

『あちっ』笹川が顔をしかめると彼女は怪訝な表情を向けると足早に立ち去った。

 笹川はコーヒーを飲み干すと、

「私は承知したから、あとは総務の方と良しなにたのむよ」笹川はそう言いながら先刻のウエイトレスとぶつかりそうになりながらせわしなく店を出て行った。

 奈保子は笹川の後姿を目で追いながら吐息を漏らした。その刹那に仕事に対するこだわりと自身に対するわだかまりのような感情が折り合いをつけたように絡み合いながら胸の奥から飛び出したような心持ちになると、見慣れた窓の外の景色が切ないほどに愛しく思えた。目の奥に細い痛みが走ると涙が流れて肩が震えた。

 初老の客の目が開いた。一瞬、奈保子の姿に目をやるとそれまでを同じように目を閉じた。

―つづく―

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