短編小説#46
(第46話)
夫の七郎が旅立って一年が経つ。
『ご臨終です』医師の言葉が奈保子の耳に遠くで響く。
夫はたった数時間の入院であっさりと逝ってしまった。極めて珍しい型の慢性白血病で四年あまりの闘病の末のことであった。
そのころ、壬生七郎は、社員三十人ほどの会社の会長を務めていた。自身で立ち上げて、育てた会社である。目をかけていた社員に社長の座を譲ったのであったが、経営権を譲ったあたりから、会長室を取り上げられ、明らかに冷遇される屈辱を味わった。
葬儀は、奈保子たち家族にはほとんど縁のない仕事関係者ばかりが目立つものであったし、そのうえ、会社と家との合同葬儀(つまり社葬みたいなもの)と言いながら、結局のところ、葬儀費用の一円たりとも会社は出さずじまいだった。
奈保子は七郎のことが好きだった。最後の最後まで、男としての彼に恋をしていた。
だが、七郎が同じ気持ちだったとは思っていない。
家族としての情はあったろうが彼にとって奈保子はもう女ではなかったと自身思っている。彼の人生では、女とか、子どもを含めた家族の存在は、決して優先順位の上位ではなかったのだろう、とも…
結婚前、七郎の友人に、何事にも行動が早くて、『あいつは考える前にもう走り出してるやつだから』と忠告されたのを奈保子は今でも覚えている。
一方の奈保子は、口だけの人間だったから、七郎の行動力が好ましく、うらやましかった。長い結婚生活の間、その思いは少しも変わらなかった。
あれは、死の二ヶ月ほど前のことであった。通院から帰る車の中で突然、七郎が『好きな人がいた』と言い出した。何ということのない普段の会話の中での唐突とも思える切り出し方で言ったのである。
『本当にオレの理想に近い人だったんだよ。明るくて、何事にも前向きで、強くて、でも穏やかで…』
楽しそうに、ほんとうに楽しそうに七郎は話した。そのとき、どう感じたかを奈保子には今では思い出せない。あまりにショックで、考えること、感じることを彼女自身が拒否したのである。
聞けば、三十年も前のことで、奈保子と結婚して十数年経った三十代後半のことで、片思いだったという。告白することもないままに…。それが本当かどうかはわからないし、そもそも、彼とその女との間に何かあったとしても、そうでなかったとしても、奈保子にとっては大した違いはない。自身の内に生まれた複雑な思いに変わりがあるとは思えない。
今さら、どうやって三十年もの年月を遡ればいいのか、誰を相手に泣けばいいのか、わからないではないか。その女は、明るくて、前向きで、強くて、穏やかで…。自身とはまるで正反対。何やらせつなくて、奈保子は幾晩かひとり泣いた。
七郎が旅立ってすぐに、いつも持ち歩いていた財布の中に、かなり長い年月入れておいたことを窺わせる、ふちがボロボロになっている写真を二枚見つけた。写真の中では同じ若い女性が古ぼけた時間の色をまとって笑っている。
―この女だ―
ありきたりな、それこそ安っぽいドラマのような展開だ。馬鹿だね、とうさん、死ぬ前にちゃんと片づけときなよ…奈保子は呟いた。
二枚とも棺(ひつぎ)におさめた。自身の写真を胸元に、その女の写真を足元に。意趣返しをしたつもりはないが、少しばかり癪だったから…でも後悔している。その女の写真こそ胸元に入れてあげればよかった。
自身の死期をある程度知っていた七郎が、人生の終わり近くになぜあんなことをあえて言い出したのかは想像するしかないが、少なくとも、彼はその女を本当に愛していたのだと思う。愛し続けていたのか、若い頃の思い出としてただ胸に抱き続けていたのかはわからないが…
それを責める権利は自身にない、奈保子は思った。
寂しいし、嫉妬もあるが、仕方のないことだ。何十年ともに暮らしても、想いが重なることは不可能だろう。互いの想いの丈(たけ)はわからない。ときに抱き合い、ときに背を向け合ったりして長い人生を歩むのだから…
七郎の気持ちが、自身のそれとは違っていたとしてもそれが何だというのか。四十二年間ふたりで暮らし、紛い(まがい)なりにも最後までともに歩いてきたことだけが重要で、なおかつ、それが奈保子にとっての真実だ。図々しくて押しの強い、俗物で女好きな田舎のおやじだけれど、懸命に自分を生きた七郎が好きだった。だからこそ、その大切な人のために何もできなかった自分が情けなく、半ば失意のうちに逝かせてしまったことが悔しくてならない。
七郎の最期の日がもう少し優しく、温かく、穏やかなものであったら、もしかして一日命が伸びたかもしれない、いや、二日伸びたかもしれない。
あったかもしれない一日一日が、七郎にとってはもちろん、奈保子にとってもどれほど大事な時間だったかを思う時、たまらない悲しみが湧いてくる。彼がいたはずの未来の、ほの明るい光景を想像し、その幻にとらわれて、一歩も踏み出せずに一年が過ぎてしまった。
七郎の死を受け入れられないまま、つい先日、子供たちと奈保子だけで一周忌を済ませた。広い本堂に住職と家族三人だけの静かな法要。本来なら、ゆかりの人たちを大勢招いた派手な席を設けてあげたかった。何しろ彼は目立ちたがりの出たがりで、華やかなことが大好きだったから。
けれど、この一年の来し方を思うとそんな気になれなかったのである。家族のほかに一体誰が彼を偲んでくれるだろう…広い世界とたくさんの友人を持っている彼がとても誇らしかったが、そうではなかった。友人と思っていたのは単なる知人にすぎなかったのである。
何もかもが色褪せるという表現があるが、まさしく奈保子の目の前もそのとおりだった。今まで信じ切っていた世界がゆらゆらと不安定にゆれている。
―おわり―