【短編小説#40】
一
二年が過ぎようとしていた。彼は、女房を自身にとって空気のような存在にすることができた、と思った。成功だった、と思った。親しい(ちかしい)人間を空気のような存在にできるということが錯覚に過ぎないことには彼は気づかなかった。
ところが、錯覚を覚えさせるほど、女房は空気の役割に慣れた。彼は友人を誘って、おおっぴらに女遊びに出かけることもできた。
彼は気楽に暮らしているつもりだったが、不意に烈しい不満に陥ることがあった。街を歩いていると気に入った感じの女を見かける。その傍らに男がいる。男の顔に自慢の色が覗き、明るく輝いているのを見ると、羨望と嫉妬を感じる。あの女は自身の方に似合う、と思ったり、自身の顔には、あの男の輝きが浮かぶことはないと思ったりする。
そんな頃、偶然、彼は、桜庭奈保子と街で行き会った。
目深にかぶった中折れ帽とマスクの間から覗く目元の様子から、傍らの男が件(くだん)の役者であることはわかった。男の腕にぶら下がるようにして歩いていた彼女は合った目を伏せた。
二
「予約している壬生七郎ですが…」
「あ、壬生様ですね、お連れ様が先にお入りになっております」クロークの男がモニターに視線をやったまま言う。
(連れ…?)
「あ、あの…私はひとりで予約しているはずですが…」
「昨日、キャンセルがありまして、おふたりの宿泊になっております。お連れ様のサインはここに…」男が名簿を指差した。
(なおこ…)
「…」壬生はペンを取り上げた。
「お待ちしておりました!」部屋に入ると奈保子が小走りに駆け寄ってきて壬生の首の後ろに自身の両腕を回した。
「会いたかった!」
「何も知らされてなかったから、びっくりしたぞ…」彼が訊くと、この出張のことをかつての職場仲間から聞き出したらしい。
「だって、二年ぶりよ。それに、二人きりになれるのはこんなときだけだもの…だから、そのぶん、思いきり楽しみましょう」彼女はバルコニーに出ると声を上げた。
最近、再び賑やかになり始めた土地にあるA温泉での一日が始まった。ホテルの窓の斜め下に波打ち際が見えた。夏の光が、砕ける波と濡れた黒い砂と、それに続く白い砂浜とを照らし出している。白い砂の上一面に煌めく光がある。浜辺には人影はまばらだった。
…
「壬生さん…」
「なに?」
「一年分の…だから、わたし、これでしばらく大丈夫。なーんてね…」
「五十を超えるとその気遣いがうれしいな…」
「わたしたち、なんか照れてない?」
奈保子は床に落ちたストッキングを取り上げると、いつものごとく、自身の乳房に巻きつけた。
「…久しぶりに会うとどうしてもそうなっちゃうな」
「…わたし後悔してるの」
「後悔って…なにを?」
「いろいろ言ったでしょ、『少しは干渉して欲しい』とか『奥さんと別れてわたしと一緒にならない?』とか『さすがのわたしだって心が揺れたわ』なんて言ったこと…」
「まあ…ただ…」
「待って、わたしに言わせて!」彼女が彼の言葉を切った。
「…いちいち女の行動に干渉するなんて壬生七郎じゃない。あなたは他人に干渉されるのは好きじゃないし、だから、そのぶん、他人には干渉しない、そのことはわたしにもわかっていた…」
「…」
「でも、わたしが思わずあんなことを言ってしまったのは、わたしが自分の周りに男の人の存在があるのをちらつかせて妬かせたかったからなの…まったくわたしらしくないことをしちゃったわ」
「…今、オレは大事にしたい女がいる。馴染みの喫茶店の娘だ。シングルマザーでまだ小学生の男の子がいる」
「またか…いいの、そういうことはいちいち報告しなくても。わたしには関係ないし、訊きたいとも思わない。知り合ったばかりの頃、わたしがあなたに言ったこと覚えてる?」
「なに?」
「わたしたちの関係って、結婚を前提としない真面目なおつきあい…そして永遠の恋人」
「ああ、覚えているよ」
「わたしが結婚を前提としない、と言ったのは縛られるのが嫌だから…結局、わたし自身、干渉されるのが嫌(いや)なタイプだったのね」
「つまり、オレたちは似たもの同士ってことか…」
「そうね…わたし、いまあのひととつきあっているけど、彼のこと好きだし、別れるつもりはないの…それでもいい?」
「役者か…ああ…別に構わないさ」
「…変な男」
「そうかなあ…」
「そうよ」
「…」
三
その翌年、壬生は根岸の家を出て奈保子の家に住むようになっていた。
ある朝、庭に眼を向けた彼女が不意に声を上げた。
「あら、花が咲いたわ」痩せた桜の木枝に薄い桃色の花が一輪だけ咲いていた。
「昨日まで気がつかなかったな。いま一輪だけ持ってきて飾りつけたように見える」
「どういうわけかしら…」
「…」彼は黙ったまま、花を眺めていた。
(何かが起ころうとしているのだろうか、あの木の下の土に何かが埋まっているのだろうか、平べったく、乾し固まった人の死体でも埋まっているとでもいうのだろうか…)
風が吹いてきて、桃色の花弁が一つ飛んだ。
そのとき、壬生が戻らなくなった根岸の家では女房が医師から処方された以上の睡眠薬を呷った。
―おわり―