【連載小説#41】(一回目)
一
ネクタイを締めて、背広を着けて、コートを羽織って、いつもの時間に壬生七郎は家を出る。
彼は企業財務のコンサルティングを生業としているが稼ぎは決して多くはない。趣味の小説を雑誌に投稿したりして小遣い程度の賞金を手にすることもある。そんなとき、彼はその金を握って酒場に繰り出し、決まって記憶をなくすほどに大酒を飲み、その翌日は日中(ひなが)、職場のソファに横たわって後悔をするのが常である。
この日も、夕刻になると身体を起こして冷蔵庫に向かい、缶ビールを取り出す。のどが潤い、意識がハッキリとしてくる。
(なにか腹に入れないとな、行くか…)彼は呟くとワイシャツの上にコートを羽織った。
二
今朝も桜庭奈保子はシャワーを浴び、髪を洗う。バスタオルで身体を包み、ベッドルームの椅子へと進む。ストッキングに脚をすべらせ、慌ててパンプスを履く。レインコートのポケットにちょっと手を入れて、ひとり息子の手を引いて、またいつもの一日が始まった。
澱んだ空気で膨れきったオフィスに書類が増えてくると奈保子はひと息つく。椅子に身体を凭せて、コーヒーに口をつけるが眠気覚ましにはならない。これもまたいつもと変わらない。
(金曜日か…行ってみようかしら…)そんな気持ちになったのは初めてだった。
同僚の女子職員がおおむね好意的に話す職場近くの喫茶店【トロント】を思った。
三
「ビールください」気負っているのか、声が上ずっていることに奈保子は自覚的だった。これまでの生涯で一度として夕食をひとりでとることなど無かった彼女にとって、この一言を発するのにどれだけの覚悟が要(い)ったか、自身のほかに知る者はなかった。
あらためて店の中を見廻すと、入口付近の壁には年季の入った著名人のものらしいサイン色紙がひっそりと置いてある。これ見よがしでは無いところに店の主人の節操のようなものを感じる。低いソファ、低いテーブル、壁や天井も凝った造りとなっている。静かな古い洋楽が流れているのにも好感が持てた。十余りの席には奈保子の他に二組の年輩のカップルがある。
「おまたせしました」ビールの小瓶を奈保子の前に置いた必要以上に愛想を振りまかない女性店員の態度に怯みながらも、背を向けたその店員に向かって奈保子は「あの…」と声をかけた。
「はい」振り向いた店員の表情は薄かった。
「これを…ください」彼女は【エビフライ&ハンバーグ】と書かれたメニューの箇所を指差した。
「はい」店員は奈保子の指の先のメニューを見つめたあと、合点したような表情で奈保子を見返した。店員は奈保子から目を素早く逸らすと、
「サービスディナー…」背すじを伸ばすように歩きながら厨房に向かって声をかけた。
はあ…奈保子は小さく息をつくと、細いグラスに半分ほど注いだビールを喉を鳴らして飲み干した。
身体をアルコールが巡ってゆくのに併せて心が平素以上に優しくなる。
(よかった…)ひとりで夕食をとっていることに誇らしさのようなものを覚えた。
「おまたせしました」きわめて事務的に【サービスディナー】をテーブルに置く店員に心を揺さぶられることは、もはや、なかった。
【サービスディナー】のハンバーグにナイフを入れた。(おいしそう…)奈保子がナイフの先の肉片を口に運んだそのとき、中年の男が隣のテーブルのソファに乱暴に腰を下ろした。
その粗暴さに腹が立った彼女は瞬間的に男を目の端で捉えた。
「…」彼女の視線に気づいた男が片手を上げて微笑んだ。
「…」男の潔いほどの明るさと人懐こさに彼女は不意に微笑み返した。
「彼女と同じのちょうだい」男は奈保子の【サービスディナー】を指差しながら、近づいてきた女性店員に言った。彼女の表情が緩む。
「ビールでいいの?」
「ビールはもういっぱいだよ。ワインちょうだい、赤いの…」
「…」店員は表情を緩めたまま厨房に向かって行った。
「初めて…?」
「ええ…」
「飲もうよ」
「えっ…?」
「ここは八時で終わりだから、ここ、早いとこ出て、他で…」
「そんな…む、ムリです」
「…そうだよな、初めて会った男にくっついてゆくほど馬鹿じゃないよな…あんた」男は遠くを見た。
―つづく―