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【短編小説#23(前編)】

「最後のチャンスなんだ。それから、ちゃんとするから」そう言い残して卓也はカナダ行きの飛行機に乗り込んだ。それから二年後のオリンピック代表選考から神崎卓也は漏れた。

(会いたい…)その日、途絶えていた卓也からのメールが携帯電話に届いた。

(これじゃ都合のいい女じゃない…)桜庭奈保子は誘いを断った。自宅マンションの一階のフロアに並んだポストに差し込まれたタウン誌を手に取ってページを捲った。

(この夏でおわり…)記憶のテープが巻き戻されてゆく。

「かあさん、今度ばかりはどうもいかんらしい」壬生保吉は壬生七郎の目を見ずに言った。

「…」七郎は黙ったまま運転席に乗り込むとドアを閉めた。

「よろしく頼むよ」窓を開けると言った。

「ああ」保吉の吐く息が白かった。

「それじゃ」静まり返った駐車場にイグニッションキーを回す音が響いた。小さくクラクションを鳴らすと七郎は車を動かした。交差点を曲がって見えなくなるまで、ルームミラーには保吉が映っていた。

 七郎の問いかけに久美子は力なく顔を動かすだけで、表情は失せていた。

 保吉はかいがいしく久美子の世話をした。七郎は保吉のその姿を意外に感じた。公立の中学校で校長をしていた保吉は家族に対してあくまでも厳格だった。妻の久美子に対しても。そんな保吉が久美子の二度の入退院でひとが変わった。久美子は何か不便を感じると保吉を頼った。病人特有のわがままも保吉は受け入れた。

(連れ合いなんてそんなものか…)七郎はこの時ばかりは別れた女房のことを想った。

 桜の季節に久美子は逝った。四十九日の法要が終わって七郎は保吉に同居を申し入れた。久美子が逝ってから、保吉の落胆振りは甚だしかった。

「心配はいらん」保吉は固辞した。

 七郎は時間のあるかぎり保吉の元に通った。七郎の前の保吉は気丈だった。元の厳格な父親に戻ったかのように見えたが、七郎には連れ合いを失くした男の本能的な弱さがむしろ透けて見えた。

 久美子が寝込んでから保吉はひと付き合いをしなくなった。久美子を看て、家事をこなした。それまでは一切の家事を久美子に任せていたが、もともと器用でまめなところがあったのか、苦もなくこなした。

「一人分ってのは加減がうまくいかん」と言いながら七郎の飯を作った。神経質なところがあって家事も完璧にこなさないと気が済まなかった。

「少し手を抜いたらいい」七郎の言葉に「ウチにいるばかりで働かんわけにもいかんだろう」そう言って保吉は取り合わなかった。

 七郎は勤め先の商社が勧奨する早期退職に応じて割り増しの退職金を受け取って退職した。それから、幼い頃からの知人を通じて地元の団体の職に就いた。介護に理解のある職場で、保吉のそばにいられるのは都合が良かった。こうやって外堀を埋めるようにして魚彦は押しかけ女房のように保吉と同居するようになった。

「にいさん、よろしく頼むよ」電話口で三つ歳下の武美が言った。武美は保吉の厳格さに嫌気が差して地方の国立大学に進むと、そこで職に就いて、妻を持って、家庭を持った。子どもが幼い頃は盆と暮れには帰省していたが、このところは無沙汰をしていた。最近の帰省がいつだったのか、七郎には思い出すことができないほどであった。

 久美子はなにかにつけて武美を諌めていたが、本当のところは久美子が武美に対して、自身に対する以上の愛情を抱いていることを知っていた七郎は武美に対して嫉妬に近い感情を抱いていた。武美はそんな久美子や七郎の思いに頓着することなく奔放に振舞った。

 保吉はそんな武美を持て余していたが久美子は保吉と武美との関係をなんとか取り持っていた。

―つづく―

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