短編小説#47
その前年、壬生七郎は根岸の家を出て桜庭奈保子の家に住むようになっていた。ある朝、庭に眼を向けた彼女が不意に声を上げた。
「あら、花が咲いたわ」痩せた桜の木枝に薄い桃色の花が一輪だけ咲いていた。
「昨日まで気がつかなかったな。いま一輪だけ持ってきて飾りつけたように見える」
「どういうわけかしら…」
「…」彼は黙ったまま、花を眺めていた。何かが起ころうとしているのだろうか。
風が吹いてきて、桃色の花弁が一つ飛んだ。
…
七郎は葬儀を終えて家(うち)に戻ると荷を床に落とし、明かりも点けずに脱力したように座りこんだ。
保険会社から届いた封筒を開けると保険金が払われる旨の通知に【エピローグ・レター】と題された手紙のようなものが同封されていた。
『おとうさんへ
今、世界は得体のしれないウイルスに怯えているけど…
この地球に同じ時代に生まれて、おとうさんと一緒になれたこと、それが奇跡で、それ自体が嬉しかったの
忙しく生きる営みの中では見えない、ささやかな毎日のなかに、かけがえのない喜びがあったんだね
出会ったこと
笑ったこと
そのすべてにありがとうございました。
わたしは、少しだけ、みんなよりも先に
いなくなってしまうけれど
愛してるわ どんな時も
あなたたちを守っていると伝えて欲しいの 本当にありがとうと 子どもたちにも…
向こうの世界は暗くてすれ違ってもわからないようだわ それじゃ、さようなら
(まだ生きている)
かあさんより』
壬生は窓から射し入る夕日に溺れて膝を抱えると、さめざめと泣いた。
―おわり―