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【連載小説#41】(七回目)

(「ずいぶん急なのね」膝の上に広げた弁当を片付けながら奈保子が少し腰を浮かせた。
「そうだな。ずっとグラウンドにいたオレだから、こうして試合を見たことなんてないからね。―こんななんだ…なんて思っている」壬生にとって、ここでの最後の試合となった対戦相手であった生命保険会社の応援席は球場の最も高い場所にあった。
―見て…身体を乗り出すようにして球の動きを熱心に追っている二人に挟まれた魚彦の様子を奈保子が視線で壬生に話しかける。壬生が表情を崩して応える。
「すごい!」保険会社側の応援団の歓声に奈保子が思わず声を上げる。
「…」魚彦はグラウンドを見つめたまま驚きの表情を浮かべたり、身体を大きく動かしたりしている。「帰ろうか…」奈保子の声に魚彦は名残り惜しそうにうなずいた。)

『元気でやっとるのか』

「ええ、とうさん、具合はどう」

『相変わらずだ。魚彦は元気か』

「ええ、今日も早くから野球の練習に行ったわ」

『そうか、少年野球はこっちにもチームがあるぞ』

「そうね…」

 父親の信男は奈保子たちに帰ってほしいことを遠回しに言っている。母に替わった。

『元気?』

「ええ」

『そう…?声に元気がないけど…』

「そんなことないわ。ところで、急で悪いけど来週帰っても、いい?」

『うん。いいけど…』理由を聞こうとした久美子は言葉を呑みのんだ。

「今、おつき合いをしている男のひとがいるの…相談したいの」

『また、急な話ね。おとうさんにも聞いてみないと…』

「そうよね…」

『聞いてみるわ。また電話する』

「うん。…それじゃ」久美子が電話を切るのを待って奈保子は受話器を置いた。

(阿弥陀堂に連れてってやろう。退屈かな、野球場だってあるし…)

―少年野球はこっちにもチームがあるぞ、過日、父の言った言葉が浮かんだ。

(魚彦だって、新しい町できっと野球をしたいに違いない)
(そうだわね。あのひとに野球を教えてもらうよりは、魚彦がちゃんと野球ができるようにしたほうがいいかもね)

 奈保子はテーブルの小鏡に映っている自身の顔を見つめた。

『早くしないと、おばあちゃんになってしまうものね』今度は声を出して呟いた。

 ××温泉から県道を右折すると、なだらかな上り坂が続く。一、二キロ進むと前方に神社が見えてくる。神社を通り過ぎると道は二手に分かれ、右手の阿弥陀堂へ向かう。石仏とすすきが出迎える急坂はゆったりとカーブしながら続く。路肩に車を停めて振り返ると山河が開けて、相当な高みまで来たことがわかる。さらに車を走らせてゆくと車が数台停められそうな場所があり、そこに車を停める。魚彦の手を引いて、お堂へと続く細い道を進む。阿弥陀堂は閉まっていた。

 奈保子は縁側に腰を下ろして煙が立ち昇る里山の景色をしばらく眺めた。

「静かね」

「こんなところに野球チームなんてあるの?」魚彦が奈保子に尋ねる。

「おじいちゃんがそう言っていたわ」

「ふ〜ん」心ここにあらずといった風に魚彦は遠くを見た。

 石畳を踏みながら、棚田に入ってゆくふたりを夏の茜が包んでいった。

「壬生七郎か」信男は腕を組んで何かを考え込むようにした。

「そうよ」どこか期待を込めたような自身の物言いに奈保子は恥入る感を抱いた。

「野球をやっていたというが…」

「ええ、社会人野球で。私の会社で…」

「M社でか」M社とは今、奈保子が勤めるP社の旧社名である。

「そうだって聞いてる」

「Mの壬生といえばかなりの名選手だ」何かを懐かしむように信男の表情が緩んだように奈保子の目に映った。

「もし、その男がその壬生だったら会ってみたいな」信男は煙草を大きく呑み込んだ。

「きっとそうだと思うわ。あのひと野球のことあまり喋らないから」

「…」信男は煙を盛大に吐き出した。

―つづく―

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