【連載小説#41】(三回目)
(『もしもし…』
潜めるような声が七回目のコールを絶ち切った。
「…」不機嫌そうな声に奈保子が怯む。
『もしもし、どちらさん?』
「桜庭です」
『桜庭…?…なにかの勧誘?』
「あの…【トロント】で…」
『トロント…』しばらく間があって、
『あ、ああ…あのときの?!』人懐こい笑顔が思い出せるほどの声が響いてきた。)
一
「よーし、上手いぞ!」壬生が投げ上げたボールを掴んだ魚彦が尻もちをついた。
「すぐに立ち上がって、こっちに投げてみな!」壬生の声に魚彦は掴んだボールを見つめたまま、どうしたものかと思案している様子である。
「ほら、投げてごらん!」
「おじさん、どうやるの!?」
「こうやって…」両手を頭の上に振りかぶってボールを持たない左腕を投手のように捕手に向かって投げ込むように振った。
「…」魚彦は頷くと、壬生を真似てボールを投げたが、右手と右足が同時に出てしまったため、魚彦の身体から右の方にボールは大きく逸れた。
「あー!」声を上げながら奈保子がボールに向かって走り出した。それを見た壬生も奈保子を追った。魚彦もボールを追った。
二
壬生は玄関の三和土に座って待った。
「疲れて寝ちゃったみたい」
「いろいろとすまない…ごちそうさま。帰るよ」彼は立ち上がった。
「ちょっと待って。出かけましょ、飲み足りないの…」
「かまわないが、坊やが…」
「大丈夫。あの子一度寝たら滅多なことじゃ起きないから…」
(いいのか…)彼は言いかけた言葉を呑みこんだ。
三
「あんたの子、野球するようになるかな」
「させたいの?」奈保子は壬生の目を覗き込んだ。
「それはオレが言うことじゃない。ただ、キャッチボールぐらいできるようにしておかなくちゃな。子どものうちにやっておかないとボールを投げるさまは身につかないからね」
「魚彦の相手になってやってよ、たまにで良いから…」
「断る」
「…どうして?」
「子どもは嫌いだ、わずらわしいだけだ…」彼は横を向いた。徳利を持つ手が微かに震えているのを彼女は見逃さなかった。
本心…口をついて出そうになる言葉を彼女は呑み込んだ。
四
「おかあさん、元気?」
「あたしは変わりはない。おとうさんが暑くなってからね…」肝臓を悪くした父親のことになると久美子の言葉の歯切れが悪くなった。
「そう…お盆には魚彦を連れて帰るわ」
「そうしてちょうだい。おとうさん、喜ぶわ」
電話を切ってから、奈保子は不意に寂しさを覚えた。理由はわからないのだが、自分ひとりがどこか意地になって生きているような気がした。魚彦はいるのだけれど、女として寂しい日々を送っているように思えた。神崎武美と別れてからの二年間、なにかの拍子に頭をもたげてきそうになる孤独に彼女は敢えて向き合わないようにしてきた。
(帰ろうかしら…)長野の両親を想った。
五
「あのひと、そこの会社のひとだったのよ」女主人の亜希子は奈保子の向かいに腰を下ろした。
「そこの会社って、P社のこと?」
「そうよ。彼はそこの野球部の選手でね…結構な活躍をしてたのよね…」亜希子は遠くを見るような目をした。
「わたしもそこなんですけど…」
「えっ、そうなの…でも、今じゃなくなっちゃったでしょう?」
「そうらしいですね。不景気になって…」亜希子の話を聞きながら、今や廃部になっている野球部のことを古参の女性職員に聞かされたことを思い出していた。
「野球しかやってこなかったひとを抱えておくほど会社は甘くないから…」
「そのころから、ここに通ってたんですか?」
「ええ…野球をやっていたときからずっとね。それで、野球をやっていられなくなってから荒れ始めて…直(じき)に来なくなっちゃったんだけど、あるとき、ひょっこりと現れてね…」
「それで…?」
「…話、長くなるから…」亜希子は掛け時計に目をやった。
「もう終わりの時間だわ。お店締めてくるわ、ねえ、話の続き聞く?」
「息子が待っているから…また」
「そう…」亜希子は立ち上がると入口に急いだ。
―つづく―