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【短編小説#11】

(えいっ、心の中で呟きました。わたしにとって、勇気が要ったんです。居酒屋にひとりで入るのは…)

 カウンター席とテーブル席が壁に沿って2つ並んだ店はおおかた客で埋まっている。

『いらっしゃい!』店内の喧騒に混じって、カウンターの中の主と思しき板前の甲高い声が響く。 

(よし、わたし、いざとなると、どうにでもなれ、って思い切っちゃうところがあるんです)

「そこは予約席なんですよ。すんませんが、こっちにお願いします」板前は頭を下げながら自分の目の前を指差した。入口わきのカウンター席に腰を降ろそうとしたわたしは板前に従った。

「はじめてですね。なんにしましょう」

「レモンサワーください」わたしの声はいつもよりうわずっていた。それでも、壁に貼り付けられた品書きに胸を高まらせた。

 予約席の客が席に着いたのは7時ころ。

「マスター、お酒」

「熱いの?」

「冷たいのがいいな」

「はいよ」男の声に主は調子よく応じると、カウンター越しに二合徳利と猪口を置いた。

 男は「いか刺し、串3本、ポテトサラダ」を注文した。

(50くらいか…白髪の様子、肌の張り…いや、もっとか…)わたしは男に思いをめぐらせたが、酔いのせいか、思考がまとまらない。

(帰ろうか…)そう思ったが、予約席の男に少し興味があったし、せっかくの一人の時間を手放すのも惜しい気もしたから、もう少し此処にとどまることに決めた。 

「先生、どうでした?」

(せんせい…)

「2回戦でおわり。今年は良い子がいてね、もう少しは…って思った。彼、2試合続けてホームラン打ったんだよね。でも、ピッチャーの子がね。あ、それとぼく、今年までなんだよね。たぶん…別の学校に」

「転勤ですか」

「そう、最後のね」

「最後の…」

「定年近いから」

「定年…校長とかでもですか」

「校長でも定年はあるよ。ぼくみたいな模範的でない教師には縁のない話さ」男は自嘲的に歪んだ表情を浮かべた。

「東大出ていてもダメ?」

「ダメなものはダメ」男はそう言って少し笑った。 

 結婚前以来の“ひとり飲み”で、切り上げどころがわからないわたしは飲みすぎた。ふらつく足元に力を込めながら、(また、来よう…)酔った頭と心で決心した。

「わたしにも自分の時間をちょうだい!」子育て、家事、スーパーでのパート仕事に一切の感心を示さない夫に対して、数日前、桜庭奈保子は不満をぶちまけた。奈保子の思いもよらない鬱憤に怯んだ夫は奈保子に“月に一度の自由な一日”を認めたのである。

「ここの…いか刺し、うまいでしょ」壬生七郎は奈保子を見ずに言った。壬生とは予約席の【先生】のことだ。

「…」奈保子は声のするほうを向いた。角のカウンターの壬生の視線の先に会話の相手がいないのを確認した奈保子は「ええ」と答えた。

「それはよかった」それきり壬生は黙った。

「育児は今しかできないことはわかっているんだけど、正直、それを億劫にに思ったり、迷ったり…あるときは、もっと子供と一緒にいたかったりで、常に気持ちが行ったり来たりなんです。でも、どこか社会とかかわっていたい欲求があるので自己嫌悪」すずかは子育てに揺れる心を打ち明けた。

「今とは育児環境も違うとはいえ、女房も外に出たがって実際そうしていたけど、子供が学校に上がるまでは悪戦苦闘していたなぁ…今はあがいても育児を優先するべきだよ。子供もそれを求めているしね」

「さすが、せんせい」奈保子は壬生の顔を覗き込むようにした。

「年上をからかってはいけない」壬生が真顔で言った。

「ごめんなさい」素直に謝ることができる自分が意外だった。

「うまい魚でも食べに行かないか?」壬生の誘いに躊躇なく応じた奈保子に後悔はなかった。夏休みシーズン前の平日の海岸町の食堂でふたりはビールグラスを傾けている。

「仕事、だいじょうぶなの」

「まあ…『おまえ、もういいか、って思っちゃうところあるよな』なんて、ぼくのこと言うやつがいてね。自分のことながら、言い得て妙だと思ったよ」

(わたしのことは訊かないの…)奈保子は思った。

 梅雨の雲間から差し込む日差しを受けて、心持ち右肩を下げて先を歩く壬生の影を踏むようにして奈保子は線路沿いの道を行く。

 どんつきを折れたところで「すこし、休もう」壬生が振り返る。

 奈保子に覚悟はあった。

「いかんな」壬生は股間を見つめると歪んだ表情を向けた。

「のみすぎたんじゃない…」肩から斜めに走る大きな窪みのある背中を抱きながら奈保子が言った。

「そんなことはない」

「わたしがいけないのかしら…」

「そんなことでもない。すこし寝かせてもらうよ」壬生はあお向けになると目を閉じた。

「予約席じゃないの?今日は」わたしは目だけをカウンターの角に動かした。

「せんせい、ずっと来ないんだよね」

「ずっと…ってどのくらい?」

「奈保子ちゃんが来た日の幾日かあとからだったかなぁ」主は腕を組むと唸った。

(あの日から…)

「1ヶ月くらいで、なしにしちゃうの?予約席。薄情ね。マスターって」

「…と言われても、こっちも商売だし、ちょっとヤバいひとだったみたいだし…」主は困った様子で帽子の上から頭を掻いた。

「ヤバい、ってどういうこと?」

「活動家で、海外の仲間の手助けをしていたみたいで…捕まったかも」

「活動家?」

「左翼のこと。学生運動とかしていたらしいよ」

(活動家?、左翼?)

「マスターどうしてそんなこと知ってるの?」

「…」

(捕まったって…)

(いま、わたしは子育てと家事、パート仕事にと日々、悪戦苦闘しています。お店?あれから、行っていません。)

―おわり―

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