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【連載小説#41】(九回目)

(昼食の時間になって魚彦たちは外野の芝生で食事を摂り始めた。仕事の関係で約束の届けものがあって、すでに行かなくてはならない時間だったが、奈保子はそこを立ち去れなかった。魚彦が選手たちのあいだをやかんを抱えて麦茶を注いで回っていたからだった。
―どうして魚彦だけがあんなことをさせられているのだろうか…そう思うと選手の輪の中心に座って弁当を食べている監督らしき大きな男に腹が立ってきた。―野球をさせにいっているのに、なんであんな小間使いのようなことをさせられなくちゃいけないの…
 時間がいっぱいになって、奈保子はグラウンドを出た。)

 堤の道を歩いていても納得がいかなかった。

(なによ、あの男は。監督かなんか知らないけど、子どもにあんなことさせて…)奈保子は早足に駅まで行くと、やはり魚彦のプレーぶりを見ておきたい気がした。 約束の先方へ連絡を入れ、夕方まで待って欲しいと頼んだ。

 グラウンドに引き返すと試合が始まるところで、二列に整列した子どもたちが審判とベース板をはさんで挨拶をしていた。魚彦はチームで二番目に小さい選手だった。

(まだ、四年生だし…)奈保子は自身に言い聞かせるように呟いた。

 初回は魚彦のチームが攻撃だった。魚彦はグローブを手にそわそわとしていた。

(出るのかしら…)奈保子の胸が高まった。

 初回の攻撃が終わって魚彦が立ち上がった。

(魚彦、がんばれ…)しかし魚彦はグローブを持って駆け出すと最後の打者にそれを渡しに行った。グローブを受け取った選手はそのことが当然のような顔で守備位置についた。奈保子は落胆した。

 バットを片付けている魚彦を見ていて哀れに思えた。ベンチの真ん中に座っている監督が一層いまいましく思えた。

(まったく、たかが少年野球じゃないの。そんなに試合に勝ちたいの…)奈保子は木かげから眼鏡をかけた大男を睨みつけた。

 それでも、どこかで魚彦がプレーをする機会がまわってくるだろうと奈保子は待っていた。ところが最後までその機会はまわってこなかった。

 奈保子は届けものをしに行く電車の中で先刻見た魚彦の姿を思い出した。ベンチで頬杖をついていた目、グラウンドを整備ながら俯いていた横顔、やかんを手にして麦茶を注いで回っていた後ろ姿…。浮かんできた光景はどれもひどく、魚彦だけが辛い立場にいるように思えた。

『な、な、そうだろう』

『うそ、マジか…』

『わあ、すげえ、ほんとだ!』

 奈保子が顔を上げると目の前に塾にでも出かけるのだろうか、男の子たちが話している。歳からすると魚彦とあまり変わりがないように見えた。みんな楽しげだった。この子どもたちが今どきの普通の子どもの姿ではないかと思った。

(はあ…)男親がいないというのは、やはり子どもを卑屈にするのだろうかと奈保子は息を吐いた。

 奈保子が届けものを終えて家に戻ると魚彦はベランダに出て外を見ていた。

―もう野球はやめようかな…

 そんなことを魚彦が言い出しそうな気がした。小さな背中が住宅地に沈んでゆく夕日に消え入りそうに見えた。茜色の雲までがひどく悲しい色に映った。

「遅くなってごめんね。すぐにごはんの支度するから。今日はかあさんの仕事がうまくいったから、ごちそうをこしらえるからね」

「うん」魚彦の返事は元気のないように響いた。

「今日の試合はどうだった?」

「一試合目はピッチャーの調子が悪くてダメだったけど、二試合目は七対一だったよ。あんな試合がいつもできるといいんだけどね」と嬉しそうに笑った。

 奈保子は魚彦を見つめた。野球の話をするときの魚彦はいつでも本気で喜んだり悔しがったりしていた。

―よっぽど野球が好きなんだ、あのひとの影響かしら…

 しかし、奈保子にはグラウンドでの魚彦の姿を見てしまった今、少年野球チームに入ってからのこの一年間、彼がどこかで無理に野球好きの子どもを演じていたのでないかと思えた。

 その演技が奈保子に対しての気遣いであったのなら、無神経な会話を続けていたことになる。

(なんて鈍感な…)奈保子は自身を責めた。

 その夜、食事をしながら、奈保子は魚彦の口から本心を聞き出したくて、さり気なくチームのことや野球の話を魚彦にした。

「野球の調子はどう?」

「まあまあ」

「そう…」

「少しだけカーブが打てるようになったんだ」

「カーブって?」

「曲がってくるボールだよ」

「打つのにむずかしいわけ?」

「そうだね」

「たいへんね」

「練習すれば打てるようになるんだ」

「教えてもらえるんだ」

「そう…」

「ねえ、監督さんってどんなひと?」

「怖いけど、いいひとだよ」

「もう少しでプロ野球にいけそうだったんだって」

「自分でそう言ってたの?」

「ちがう。たまに来るおじさん」

「おじさん…?」

「知らないおじさん。水道のところで教えてもらったんだ」

「確かめたの?」

「なにを?」

「監督さんがプロ野球にいけそうだってことよ」

「そんなことしないよ、ただそう言われただけだから」

「そう…」

「なんでそんなこと聞くの?」

「ううん、なんとなくね」

 自身を見つめる魚彦を見て、奈保子は慌てて目の前のスープに視線を落とした。

 魚彦の野球のことが、その日以来、奈保子の頭を離れなかった。グラウンドへは行けなかったが魚彦がどうしてそんなつらい立場の場所に毎日出かけるのか奈保子には理解できなかった。

 そして、奈保子には気になっていることがあった。それは魚彦が突然、同級生に野球チームに誘われたんだと嬉しそうに奈保子に言ってきて、奈保子が魚彦ふたりでグローブやウエアなどをデパートに買いに出かけたときのことだった。

「ねえ、男の子が一度やるんだって決めたんだから絶対途中でやめちゃだめよ」

 ダイニングに真新しいユニホームを着て立っていた魚彦に奈保子は指切りまでして約束させた。

(あの日の約束のためにつらいことを我慢しているとしたら…)

 しかし、魚彦は学校から帰るとすぐにユニホームに着替えて家を飛び出してゆく。ひょっとしたら、あの日だけ魚彦はメンバーから外されていたのかもしれないと思い始めた。

(明日、もう一度見に行ってみようかしら…)

 奈保子はコーヒーカップを置いた。

―つづく―

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