【短編小説#23(後編)】
一
(どれぐらい時間が経ったのだろう…)目がさめたとき、奈保子は横になっていることに気づいた。襖が開くと、廊下の窓から差し込む月の明かりが人影に遮られた。
(保吉さん…)襖が閉じられると人影が布団の中に入ってきた。
(どうしよう…)奈保子は身体を固くした。スカートに手がかかった。
(声を上げようかしら…でも、そうしたら七郎がきて保吉さんを…お願い、手を離して…)奈保子は寝返りを打つふりをして、その手をはらった。保吉の呼吸が静まり返った部屋に響く。少し間をおいて保吉は奈保子に布団を掛けると部屋を出て行こうとした。
「保吉さん、こっち来て」襖の向こうの保吉の足が止まった。
「保吉さんでしょう?」
「…」
「こっちに来て」襖が開いた。月の灯りが保吉を影にしている。奈保子は立ち上がると、着けているものを足元に落としてゆく。奈保子の裸体を月の灯りが照らす。
「抱いてもいいよ」両手を腰の辺りで開く。
「…気持ちはあるが、いうことをきかない」保吉の影が揺れた。
「わたしがいうことをきいてもらう」奈保子は保吉のベルトに手を掛けた。
…
「すまん」保吉が顔を向けた。
「わたし、魅力なかったかしら…」
「そんなことはない。私にはその力がないんだ。ただ…」
「ん?」
「キミが七郎とここに初めて来たとき、年甲斐もなく胸がときめいた。一目惚れだよ。息子の知人の娘さんにそんな感情を持つことに罪悪感を抱きながらもね」
「…」
「今日、キミが来てくれるのを心待ちにしていたんだ。今日しかないと思っていた。理性が失せた」
「保吉さん…」
「キミはこんなじいさんに人生最後の楽しい夢、いや、現実を感じさせてくれた。ありがとう」
「保吉さん。これからも、わたしのボーイフレンドでいてくれないかしら」
「…いいのか?…でも、七郎はおそらくキミのことを…」
「保吉さん、そろそろいったほうがいいかも。七郎さん、起きてくるころかも」
「そ、そうだな」保吉は布団を這い出ると身なりを整えて部屋を出て行った。
二
ガス台に火をつけたままでいることを忘れて居眠りをする。風呂に張る水を出したままにする。食事をしたことを忘れる。鍵を掛けずに出かける。食べ切る前に同じ食材を買ってきて冷蔵庫の中でそれらをだめにする。
(痴呆か…)元々、万事に几帳面な保吉だから魚彦は訝しんだ。七郎は保吉を医者に診せた。悪い予感は当たらないものとどこかで期待していたものの、診断は七郎の予感のとおり、初期段階のアルツハイマーだった。
…
「にいさん、頼む」操はいかにも厄介事を避けるような口振りだった。
「魚彦たちも受験やらでうちのも大変だからね」弟が息子らを引き合いに出して、体よく、父親の世話を押しつけようとする気持ちがありありと感じられたし、独り身で長男である自身が父親の面倒を看ることは自然の成り行きであることも七郎は理解していた。
…
「亜希子さんはどこかに出かけたのか」保吉は別れた七郎の妻の名を口にした。
「あきこ…」
「そうだ、亜希子さんはどこだ!」
「とうさん、亜希子は旅行にいったじゃないか」
「旅行…」保吉は失せた表情を七郎に向けると遠くを見た。次の日も保吉は同じことを言った。
(いよいよか…)
「旅行にいったっていったじゃないか」
「私はもう騙されんぞ」保吉は七郎のたしなめるような物言いにいきり立った。
「大きな声を出すなよ。さあ、ウチに入ろう」七郎は保吉の背中に手を当てた。
「…」俯いた保吉の横顔をバス通りの街路灯が青白く照らした。
三
保吉は床に広がってゆくシミをじっと見つめている。
「あらあら、七郎さん、バスタオルもってきて」奈保子が言った。
「バカたれ!」七郎は罵ると保吉の頭を叩いた。保吉は泣きそうな表情を七郎に向けた。
「なんてことするの!」奈保子が睨みつけた。
「キミにボクの気持ちがわかるか!」
「…わからない。けど、叩いていいとは思わない」奈保子が睨みつけたまま言った。保吉はそんな二人のやり取りを無表情のまま見つめていた。
…
「あきこさん、あなたは親切なひとだ」奈保子が七郎を見る。「やっぱり七郎はあなたがいないとだめなんだ。よく戻ってきてくれた」保吉は涙を浮かべて奈保子の手を握った。
「あきこさん…って?」
「ボクの別れた女房。キミのこと、そう思っているらしい」
「とうさんも飲むか?あきこが来たことだし」
「わしはいらん」保吉の表情は失せてはいるが、その口調にはいつになく意思が込められているように七郎には聞こえた。
「そう。それじゃあきこ…」七郎は奈保子のグラスにワインを注いだ。
「あきこさん…いつから飲めるようになったんだい」保吉は大きな声で言うと斜視気味になった瞳で奈保子を凝視した。
「最近よ。飲めるようになったのは」
「…」保吉は遠くを見ていた。
四
「少し時間がありますから」火葬場の係員が恭しく頭を下げた。真昼の陽に煙突が二人の足元に影を作っている。
「ひとってああやって天に昇ってゆくのね」青い空に吸い込まれてゆく白くもなく黒くもない煙を仰ぎ見ながら奈保子が言った。
「そうだね。でも…」七郎が言葉を切った。
「でも?」奈保子が七郎の覗き込んだ。
「寂しくないこともないけど、荷が下りた気もする」
「そんなものかしら。わたしの両親は元気だからわからないけど…」奈保子はこれ以上、言葉を継ぐことに躊躇いを覚えた。七郎は煙を見つめていた顔を奈保子に向けた。
「奈保子さん、こんなときになんだけど」
「なに?」
「あの日、親父となにがあったのか話してもらえないかな」
「あの日?壬生さん、なんのこと?」
「キミがウチに泊まった日のこと。はなしたくないのなら、ムリにとはいわないけどね」七郎の柔らかな物言いには複雑な感情が込められているように聞こえた。
「…とぼけるのも心苦しいから話すわ」奈保子は足元の芝生に腰を下ろすと話し始めた。
…
「あなたがどう思っているのかわからないけど、変なことはしていないから。保吉さんはね、こんな話をしたの」奈保子は遠くを見るようにして、そこでの会話のひとつひとつを記憶を確かめるようにしなら話した。
…
「「七郎のことだが、夫婦のことだからどうしてそうなったのか理由はよくわからないが、女房に逃げられたんだ。男をつくってな。もう十年になるかな。取るものもとらずに、というか、物わかりがいいのか、諦めがいいのか…あいつは子供の頃から不器用な男で息子ながら不憫でな。私にはわかるんだ、あいつがキミに惚れているのが。私がいうのもおかしな話だが、あいつの女房になってもらえないか」保吉さんはそういって頭を下げたの」
「…おやじがそんなことを」
「でも、わたし断ったの。だってそんなこと頼まれたって、そうですかって受け入れられるわけ、ないじゃない」
「おやじ、余計なことを…」七郎は吐き出すように言うと自身の足元に視線を落とした。
「ごめんなさい。やっぱり、わたしあのひとと一緒になる。話したっけ?水泳いっしょにやってたひと」
「オリンピックだめだった…」
「そう。女々しいところがあって、身体のわりに気の小さいけど、なんか相性みたいな…」七郎には奈保子の言葉が耳に入ってこない。
(保吉さん、これで良かったのかしら…)奈保子は立ちのぼる煙を見ながら呟いた。奈保子の足元で枯れ葉が舞った。
―終―