短編小説#12
(私は奈保子に恋したようだ。罪深いほどに愛くるしい容姿は目を閉じても、まざまざと思い起こすことができる。)
一
明かりを落とし気味にした狭い店内は、一日の終わりまでのつかの間をここでやり過ごそうとする男女で満たされている。
窓際の二人が向かい合うテーブルの端に置かれたキャンドルグラスの中の炎が微かに揺れている。サラダを器用に取り分ける桜庭奈保子の手つきを壬生七郎は凝視しながら避暑地の山あいの保養所での出来事を思い出している。
壬生は視線を窓の外に移した。夏を追いやろうとするかのような静かな意志をもった秋の雨に濡れた路面が街の灯りにきらめいている。
…
目の前には下り坂が伸びている。底を打った道は緩やかに上り、道の両側には別荘らしい木造の建物が点在している。そのほとんどは手入れが十分でないようにみえる。上り坂の彼方に広がる山並みは夏の空気に霞んでいる。
道に沿って並ぶ針葉樹が途切れた辺りで壬生は立ち止まった。背中に滲んだ汗を山の空気がたちまちに乾かせてゆく。「みぶさんっ」追いかけて来た奈保子の額にはうっすらと汗が浮かんでいる。
「風が気持ち良くて、ここまできてしまった。もう東京に戻らなきゃならないと思うとうんざりだ」壬生が大仰に表情を歪めた。奈保子が声をたてずに笑った。
「もどるよ」壬生はもと来た道を歩き出した。
「みぶさん、ちょっと待ってください」課長である壬生が勤める会社は上司を役職で呼ぶことはしない。
「どうした…?」
「ちょっと悲しい気分です」奈保子は目を伏せた。
「…」
「みぶさん、昨日、みんなの前で…はずかしかった」壬生は研修の最中に参加者の前で奈保子の不手際を叱責したことを思い出した。
「すまん」壬生は頭を下げた。
「それだけじゃ、だめ」奈保子は眉間にしわを寄せた。
「△△△ホテルの地下の「○○○」というレストランに連れて行ってください」
「△△△ホテル…わ、わかった」壬生は首の後ろに手をやった。
(高そうだな、しかも部下と2人じゃ、まずいな…)
「絶対ですよ」奈保子は眉間のしわを解いた。そのとき、奈保子の短い髪を風が揺らした。
二
かつて、壬生と奈保子が勤める会社は経営陣による汚職事件で世の信頼を失って、業績が大きく落ち込んだ。旧経営陣は一掃され、会社は新経営陣のもと立て直しを図った。
壬生は事件に絡んでいたが、【トカゲのしっぽ切り】では済まされないほどの事件だったことから自身の起訴は免れた。
時が経ち、壬生の【過去】を問えない大方の今の経営陣は彼を次の役員に引き上げることに異論反論はなかった。いわゆる【みそぎ】が済んだ壬生にチャンスが訪れのである。
…
「つぎの総会と取締役会での役員就任は確実。おめでとうございます」
「まだわからないが…とにかく、乾杯」二人はワイングラスを合わせた。
…
デザートを待つ間、
「三人のこどもさんたちはもう親元を離れて、今は奥さんとの二人暮らし。うらやましいな、奥さん」突然、奈保子が歌うように言った。
「そんなことはない、女房はボクに興味なし。今さら…」
「そうかしら…」
「そうさ。女房は趣味の芝居のほか、関心なし」壬生は遠くを見ながら。
「そうなの…じゃ、いきましょう。上の部屋とってあるの」「…」壬生は人事部の‘お局様’の奈保子に本来的に備わっている【危なっかしさ】に得体のしれない不安を抱いた。
三
壬生が前に立つと、
「キミのところの桜庭、だったな」人事部の担当役員の笹川は背もたれから大柄な体を起こすと目の前の机に半身を乗り出した。
(奈保子が…)
「ええ、ウチの課員ですが、なにか…」
「そうか」笹川は頷くと「まだ大っぴらになっていないが、その桜庭が、どうやら、ウチの社員の情報を名簿業者に横流ししているようだ」
(社員の情報を…横流し…)壬生は天井に視線を向けた。「確かですか」
「間違いないだろう。オレの知っている探偵に探らせた」笹川は一枚の写真を差し出した。そこには、書類が入っていると思われる封筒と厚みのある銀行の封筒とを交換している奈保子と若い男が写っていた。
(奈保子だ…)壬生はその男に見覚えはなかった。
「これだけじゃ…」
「探偵は男の後をつけた。その男が入っていったのは名簿業者の事務所だったらしい。こういうヤツらしい」笹川が差し出したのは男の名刺だった。
「どうやってこの名刺を」
「しらん、探偵の仕事だ」
(奈保子が、なぜ…)
「おい、聞いているのか」笹川の声に壬生は我にかえった。
「辞めてもらえ。懲戒よりも聞こえも本人にとってもその方がいいはずだ」
「名簿が流通したら?」
「出処はそうそうわからんものだ。出たらそのときに考えればいい」
「はあ…」壬生は気のない返事をした。
「役員になる前に変なミソがついたら厄介なことになる。キミのためだ」
「承知しました」壬生は頭を下げた。
「おい!」部屋を出てゆこうとした壬生の背中に笹川が声をかけた。
「いい女らしいじゃないか。惜しいな」脂っこい大きさ顔に猥褻な目つきを浮かべた。
…
写真と名刺を見せられた一瞬、奈保子の眉根が微かに動いた。
「なに…これ」奈保子の強気な物言いに壬生は怯んだ。それでも、壬生は自らを鼓舞して、
「ことが大きくなる前に辞表を出したほうが良い」と言った。奈保子はそれには答えずに、「ねえ、そんなこと、あとにしない。たまには、変わったことしてみない」二人はしばらく、唇を合わせたあと、壬生がブラウスのボタンに指をかけると奈保子が身体を離しながら言った。
「手、縛ってちょうだい」奈保子は壬生のネクタイを指さすと両手を背中にまわした。
「そういう趣味あったのか…」
「ちょっと…ね」
「…」壬生はネクタイを外すと奈保子の手首を縛った。はぁ、奈保子は息を漏らすとベッドに身体を横たえた。
「ねぇ、お願い。そして「正直に言え!」って言いながら、ベルトで***を打って」
「どうして?」
「いいから!」
「…正直に言え」壬生は仕方なく従った。
「うそっぽいわ、もっと本気っぽく!」
「正直に言うんだ!」
「そう、そんな感じで…ねぇ、スマホで撮って、動画で」奈保子はハンドバッグに目を向けた。
「えっ!?」
「ねぇ、おねがい!」
「…正直に言うんだ!」奈保子の真剣な眼差しに気圧されながら、芝居めかして言うと、壬生はスマホを構えながら奈保子の**を打った。
「わ、わかったわ。あなたの言うとおりよ。わたし、あなたがわたしを愛してくれているのを知っていたのに、隠していたの、悪い女なのよ、わたしって…ゆるして」奈保子は観念したようにベッドに顔をうずめた。
…
「わたしとこんなことしていたことがわかったら、みぶさん、いろいろとまずくない?」奈保子は不敵な表情を作った。
「そんなことは誰にもわからないさ」壬生は薄く笑った。「証拠があるわけじゃない」壬生が言うと、はぁ…奈保子は息を漏らした。
四
一週間後、奈保子は会社を辞めた。
それから十日ほど後、壬生は奈保子からSNSを受けとった。そこには動画ファイルが添えられていた。
壬生は再生したファイルを見ながら血の気が引いてゆくのを感じていた。
「…別れてあげる。動画は削除する。あなたを好きになりそうだから」
“別れたくない”壬生は打ち込んだ気持ちを送るべきか逡巡したあげく、送信ボタンに親指をかけた。
((奈保子を)愛しているのに…)壬生は腰が引けている自分を呪った。
―完―
(後日、「桜庭奈保子は難病の弟の世話をしなきゃならなくて、金(カネ)が必要だったらしい」と壬生は笹川から訊かされた。)