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短編小説#30

(桜庭…まさか…)

 壬生は打ち消した。

 社屋の外に広がる黄昏の街に黒い影になった建物の向こうの空は橙から水色のグラデーションをつくっていた。

一 

「来月また来てよ。ウチのヤツに話してみるから。仮面の夫婦だから女房にとっちゃありがたい話じゃないかな」自嘲気味に言った壬生の表情が歪んだ。

(これで大丈夫…)

 奈保子は年度末のノルマをクリアできることに安堵した。

「明日はよろしくお願いします」桜庭奈保子は胸のあたりで壬生七郎に向けた手のひらを左右に小さく振った。

 奈保子の勤める保険会社と七郎の勤める工作機械の会社とは取引関係にあって、奈保子は頻繁に出入りしていた。

 暮れ方の陽が遠い街の向こうに隠れるまでには、まだ少し時間があった。

 暦の上では秋だったが、まだ十分な余力を残している陽の光が街路樹の影を奈保子の足元まで伸ばしていた。

 駅への道に一歩踏み出したとき、小さな風が奈保子の髪を梳かせた。

(髪切ろう…)

 ゴルフコンペを兼ねた一泊旅行を次の日にして奈保子は馴染みの美容室に急いだ。

「来週だったな。ゴルフコンペ」職場を出たところで背中からおもむろにかけられた声に壬生は振り向いた。

 神崎武美だった。

 彼はかつての同期入社の同僚だった。宮仕えに向かないらしく入社から十五年を過ぎたところで独立して、その後はベンダーとして元の会社つまり壬生の勤める会社との取引を続けていた。三年前に離婚して、今は息子と二人で暮らしていた。

「来てたのか」

「ああ、最後の詰めだ。お前のところの部長さん、相変わらず渋いな。ところで、お前も参加するよな」

「ゴルフのことか…でるよ」

「今回は勝ちにいくからな」神崎の目つきは真剣だった。

「まあ、せいぜい頑張ってくれよ」

「ああ、それじゃ…」彼は背を向けると、足早に帰宅の途につく人群れの中に紛れていった。

「ゴルフ初めてだったんです」奈保子は上気した頬を両手で抑えた。

「スコアは?」壬生が奈保子を見つめた。

「訊かないでください」

「表彰式が楽しみだね」壬生が茶化すように言った。

「意地が悪いんですね」

「そう。生まれつきだから治らないの」壬生がいたずらっぽい笑みを浮かべた。

 神崎の晴れがましい表情を見ながら壬生は愉快な気分だった。

「欲しかったんだよ、これ。来月、息子の運動会だから本当によかった」席に戻ってきた彼は満面の笑みで優勝商品のハンディービデオをひけらかした。

「いくつになる」

「十歳になったから四年生だ」

「女房はもらわないのか?」

「二度とごめんだよ」彼の顔が歪んだ。

「そうか…でもよかったな」

「ありがとう。ちょっとまわってくる」神崎はビール瓶を手にして他のテーブルに向かっていった。

「壬生さん。わたし、嫌なものを見ちゃったんです。だまっていられなくって…」

「どうしたの」

「わたし、ラフにはまったボールを探していたときなんですけど」奈保子は言葉を切った。

(それで…)

 壬生が目で促した。

「神崎さん、まわりをキョロキョロと見回してからボールをつかんで投げたの」

「…」

「目が合っちゃったんです。怖い目だった。さっき、わたしを見た目と同じ」

「…」壬生は腕組みしたまま遠くを見つめていた。

「このこと、オレ以外の誰かにしゃべった?」奈保子は小さく首を振った。

「なんか怖い…」

(しっ…)

 壬生が目配せをした。

 神崎が近づいてきた。

「あんたは何も見なかったことにしていればいいんだ」壬生が耳元で囁いた。

「…」

「わかったな」

「…」

「おいっ」壬生が声を上げた。

「神崎!」肩をつかまれた神崎が振り返った。

「ちょっとつきあってくれないか」出入り口に向かって歩き出した壬生に神崎が従った。

「さもしいと思わないか」

「息子の姿を残してやりたいんだ。だけどカメラを買うだけのカネが用意できない。いけないことはわかっている。しかし、いまさら、白状して恥を晒さらさなきゃならないほどのか…お前さえ黙っていてくれれば誰にもわからないことだ。頼む見逃してくれ…」神崎が涙を流しながら土下座した。

「…」壬生は彼の姿を見つめながら言葉を失っていた。

「嵌(は)めるのは心苦しかったが仕方ない」息の乱れを落ち着けるかのように壬生は温んだ(ぬるんだ)ビールを喉に放り込んだ。

「知らないことにした。このことはキミも忘れたほうがいい」

「だけど、このままじゃ…」奈保子はぶ然とした。

「彼のやったことは確かに不正だ。僅差で優勝に手が届かなかったひとには気の毒だが、そのひとはまだこのことを知らない。知らなければ誰も不幸にならない。どっちにしたってカメラは誰かの手に渡るものだ」

「それはそうだけど…でも壬生さんが言うならそうします」

「そう。わかってくれるとオレも助かる」

「オレも…って」

「もちろんあいつもだ…なんだか酔いも冷めちゃったな。東京戻って飲み直そうか」

「ハイ」奈保子は微笑んだ。

「課長、奥さん亡くしてな」男が薄笑いを浮かべながら言った。

(えっ…)

 奈保子は上げそうになった声を呑み込んだ。

「まだ四十九日も済んでいないよ」

(そんなこと…)

 妻を受取人とする保険に加入することを承知してくれていた壬生に裏切られた思いが先に立った。

「あんた、気をつけたほうがいいよ。彼だってまだ男だしね」男が下卑た笑みを浮かべた。

(…)

 奈保子は喋り続ける男の言葉を上の空で聞いていた。

 終業に近い時間のせいか、その場の空気が緩んでいるのを感じていた。

「課長、今日は戻らないと思うよ。たいへんみたいだから。それとさ、SMプレイがエスカレートしてホテルで死んだ女の話、知っているだろう」男の得意気な表情に奈保子は嫌悪感を覚えた。

「ええ、まあ…」

「どうもその女、壬生さんの奥さんらしいんだ」

「どうしてそんなことわかるんですか」

「壬生なんて名前、珍しいだろう。しかも壬生さんの結婚式に出た同僚が言っていた」

(本当だったら…壬生さんどうしているかしら)

 奈保子はそう考えると、この場を早く離れたかった。

「わたし、つぎの約束があるので、またきます!」奈保子は走り出した。

(オレに用があったんじゃ…)

 男は奈保子の高い踵がフロアを叩く音が遠ざかって行くのを聞いていた。

「奥さん亡くなったんですか?」

「誰がそんなことを…」

「●●●さんが」

「あいつ、余計なことを…正しくは前の女房だけど」

「前の…」

「そう」壬生は表情を変えずに言った。

「じゃあ、どうして…」

「すまん」壬生が頭を下げた。

「バカにしないでください。こっちは一生懸命なんです」奈保子のあげた声にその場にいた客らの視線が集まった。

 女子大に通っていた頃のこと、奈保子と魚彦の交際は【合コン】が縁で始まった。

 自身の父親が出た大学のラグビー部に所属しているということもあって、奈保子は魚彦に親近感を覚えた。

 ある晩、会食が散会となって魚彦と二人になった。「アイツはこれから偉くなるよ」魚彦は今別れたばかりのラグビー部時代の友人の話をした。

(またか…)

「わたし、歌いたい」魚彦の友人と学校自慢に食傷気味だった奈保子が言った。

「いいね…あいつ呼んでみるか」

「あいつって?」

「この前、いっしょに飲みにいったゼミの時の○○○だよ。あいつなら今ごろどこかで飲んでるだろうから呼べばくるよ」魚彦のいう○○○のことを奈保子は思い出せなかった。というのも、魚彦は何人もの学友を奈保子に会わせたがった。

付き合い初めて、ひと月も経たないうちからそうだった。

「ねえ、○○○さん呼ばなくてもいいから…」

「えっ?」携帯電話をいじりかけた魚彦は意外といった表情を向けた。

「お客さんに連れて行ってもらったカラオケスナックがあるからそこ行かない?」

「でも、○○○がいたほうが楽しいよ」

「ねえ、それって、わたしと二人じゃつまらないってこと?」奈保子は魚彦を真っ直ぐに見た。

「そうじゃないけど…」

「じゃあ、行こう」奈保子が先立って歩き出した。

➡「メシでもどうですか」保険契約の内容説明が終わって帰り支度を始めた奈保子を壬生が誘った。

「戻らなきゃいけませんか」

(二人だけで…)

 壁に掛かった時計に目をやると短い針は五時をまわっていた。

 帰社しなければならない理由もなく、かといって約束がある訳でもなく、とっさに言い訳も浮かばなかった。

「そうしましょうか」二人は連れ立って壬生の会社を出た。

 浅草でロシア料理を済ませて、二人は壬生の馴染みのスナックで飲み直すことになった。

 扉を引くと「いらっしゃい!」カウンターの向こうから女主人の声がした。

「あら、シチロウちゃん、今日はなにか訳ありかしら」

 女主人はカウンターに座った二人の前におしぼりを置いた。

「そう。ママ。オレの彼女」壬生は奈保子に顔を向けた。

「うーん、おだやかじゃあないわね…こんなに可愛いひとをどうやって口説いたの…?シチロウちゃんもすみにおけないわね」ママは大仰に眉根を寄せた。

「妬くなよ」

「そんなんじゃないんです」奈保子は名刺を差し出した。

 ママは名刺を見ながら、

「なおこちゃん、でいいわよね。わたし、言っておくけど、保険はいれる体じゃないからね」大きな声で言った。

「そんなつもりじゃないんですよ」奈保子は顔の前で両手を振った。

「でも…」

「でも、なに?」

「お客さんに紹介してもらえればうれしいです」奈保子はママの目を真っ直ぐに見た。

「あなた、可愛い顔して結構したたかね」

「そんなことありませんよ」奈保子は肩をすくめた。

「ママ、歌いれていいですか。壬生さん一緒に歌いましょうよ」奈保子はデュエット曲を選ぶと彼の手をひいて止まり木を下りた。

(奈保子のペースにはまっている…)

 壬生は混乱しながらマイクを取った。

➡「もうそろそろ出ない?」魚彦が奈保子の手を握った。

「じゃ、最後。なに歌う?またデュエットしてくれるでしょ」奈保子が歌本に目をやると背後から声がした。

「ずいぶんと仲がいいじゃないか」二人が振り向くとチンピラ風の三人の若い男のうちの一人が奈保子の肩に手を掛けた。

「ちょっと×××ちゃん」ママが男をたしなめた。

「オレたちも仲間に入れてもらいたいだけなの。ねえちゃんよ…」男が奈保子に顔を近づけた。

「おい、にいちゃん、ちょっと彼女貸してくれよ。いいよな?」男が魚彦に向かって言いかけたとき、

「あんたら、調子に乗っているんじゃないよ。ちょろちょろしないであっちに行きなさい」奈保子が男に怒鳴りつけた。

(奈保子ちゃん…)

「かわいい顔して、怖いね」

「くだらないおべんちゃらみたいなこと言っていないで早く消えなさい!」

「いい気になりやがって、この女(あま)!」奈保子の肩をつかんだ。

「なおちゃん、ち、ちょっと」魚彦は奈保子を制するように手を振ると、男に頭を下げた。

「ちょっと」魚彦は男に向かって小声で話しかけると店の奥の空いた席を指差した。

「なんだ?」男らは意表をつかれたように魚彦について行く。

 奈保子はカウンターに座ったまま、ことを見守っていた。大きな体を折り曲げるようにして魚彦が尻のポケットから財布を取り出した。何枚かの札が動くのが見えた。

 男らの一人の口が動くと、観念したように魚彦は名刺をその男に手渡した。その時、相手の目が光ったのを奈保子は見て取った。

 デザートが運ばれてきた。

 その時、魚彦の胸の辺りで携帯電話が震えた。食事を始めてから三度目だった。

「出たら」奈保子の声に恐る恐る魚彦は内ポケットから電話を取り出した。

「×××…」スピーカーから恫喝する声が響いてくる。

 魚彦が奈保子と壬生を交互に見る。

 奈保子が不安げな表情を壬生に向けると同時に壬生は電話機を取り上げると声を上げた。

「お前はだれだ!オレは壬生七郎だ、子供相手にいい加減にしないか!警察だ、弁護士だなんてのは頼りにならん。オレが相手になってやる。今から、お前のところに行くから場所を教えろ!」

「×××…」

「…切れた」電話機を魚彦に返した。

「魚彦くん、こういう奴らには弱みを見せてはいけない。毅然としていないとね。もうかかってはこないだろが…」

「壬生さん、おとうさんみたい」

「みたい…じゃない。おとうさんと同じ…くらいの歳だ」それまでとはうって変わって壬生は相好を崩した。

 並んで歩く二人を街路灯が照らしている。

「いいんじゃないか」

「本当にそう思いますか」奈保子はのぞき込むようにして壬生を見た。

「ああ」壬生は視線を逸らした。

「そうですか…」自身の本意に沿わないかのような壬生の答えに奈保子は落胆した様子で目を伏せた。

「キミ自身はどうなの?」

「…よくわからない」

「大事なことだから、納得いくまでよく考えることだ」

「やっぱり、おとうさんみたいね。壬生さんて」奈保子はそう言うと走りだした。

「キミっ!」壬生が奈保子に呼びかけた。奈保子は足を止めると振り向いた。

「壬生さん鈍い!おやすみなさい」奈保子は小さく微笑んで手を振ると再び走りだした。

「キミとの子どもが欲しい」

「うれしいわ。でも仕事が面白くなってきたところ。子どもは待ってちょうだい。わたしだって子ども好きよ。それでもいい?」壬生の結婚の申し入れに亜希子は条件をつけた。

 亜希子が身ごもった。結婚してから七年が過ぎていた。二人は幸せの絶頂にあった。

 河川敷のサイクリングロードを二人乗りしていた自転車の前を小学校に上がる前と思しい子どもが横切った。

 子どもを避けようとした二人の自転車はバランスを崩して土手坂を転がり落ちた。その衝撃で亜希子は流産した。それ以来、亜希子は子どもができない体になった。

 その日を境に亜希子は壬生を拒むようになった。

 罪悪感を覚えた壬生は償いの意味もあって、仕事を犠牲にしながら、できる限り、亜希子の日常生活での負担を軽くしようと努めた。

 あるとき、得意先の接待で相手方の求めで付き合った安クラブのホステスの香水が移った上着に亜希子が壬生の浮気を疑った。

「こんな時によくそんなことを」亜希子はそうなじりながら手当たり次第辺りの食器を投げつけた。壬生は亜希子のしたいようにさせた。

 子を授かることが叶わないことを知った亜希子は酒を口にするようになった。刹那の逃避は事態を悪化させた。

 酒の抜けない身体の不調は日常生活の営みを著しく困難にした。

 そればかりか陽の高いうちから酒を口にしては壬生の勤め先に彼をなじるような電話を入れるようになった。

 彼はそんな亜希子の振る舞いに何とかして穏やかな日常を取り戻そうとしてあらゆる手立てを講じたが叶わなかった。

 ある晩、酒に酔って帰ってきた亜希子が玄関で倒れ込むと、もどした。

 抱き起こそうとした壬生の手を亜希子は払った。

(クスリか…)

 壬生は亜希子の腕に注射針の跡を認めた。ほかの男の影も感じた。

「あんた、わたしとしたいでしょう」濁った目を向けた。

 逆上した壬生は亜希子の首に手をかけた。

「やってみなさいよ。さあ」亜希子は挑むように言った。壬生は手を緩めた。

「いくじなし!」亜希子は壬生をなじった。

 荒れ果てた二人の生活空間を取り戻すことはもはや不可能であることを理解した壬生は離婚を決心した。

 亜希子の親族はそれを壬生の不誠実ととらえて、ことの正義の判断を裁判所に委ねた。

 裁判所は泥沼化した事態を収めるべく壬生の決心の正当性を認めた。

 二人の離婚が成立した。

 壬生は資産家の亜希子の両親が用意したマンションを出て二十三区でも都心から離れたところに家を借りた。

 知人が相続した古い家屋だった。いくつかの路線が乗り入れるその駅は利便性の良さはいまにはじまったことではなかったが、区の街づくりの工夫によって若者が集まり始めたことで、駅周辺の街は賑やかだった。

 アーケードになった商店街を抜けるとそこは住宅街だった。住宅街とはいうものの家並みはまばらで石くれが散らばった更地には雑草が顔をのぞかせている。道が狭くなって往来が不自由なほどの路地のどん突きに近いところにその家はあった。

 午後の穏やかな日差しに照らされたその家は木造の平屋建てである。常葉樹の植え込みに囲まれたその家の古さゆえの趣を壬生は気に入った。

 応接間と居間は日当たりこそ悪いがむしろ落ち着いた感を好んだ。

 障子戸の向こうの廊下の先に小さな庭があった。

 部屋続きになった二間の端のカギの字の形になっているところの奥が台所になっていた。

(疲れた…)

 居間に座り込んだ壬生は煙草に火を点けた。話には聞いていたが別れることがこれほどまでにひとを消耗させることを実感した。

 奈保子は一歩を踏み出した。

 そして、二人はいつしか身体を合わせるようになっていた。

 壬生の穏やかな存在には湿気を覚えた。

 シャワーで軽く身体の汚れを流し、髪をゆっくりと洗い、身体をゆっくりと洗う。

 シャワーが風呂場の床をたたく音が街の喧騒のように響く。

 身体をゆっくりと湯に沈め、ゆっくりと過ぎる時間を身体で感じる。

 ぬれたタオルで身体をぬぐい、乾いたタオルで身体を拭う。

 そんな自分だけの時間がゆっくりと過ぎてゆくように、穏やかに自然に壬生は奈保子の中に入ってきた。それは特別なことではなかった。

 壬生は十六年前の六月を思い出していた。四十を前にして、気力、体力ともに充実していた彼は、多少の無理など構わずに仕事に没頭した。

 そんな彼を不幸が襲った。

 客に部品を届けた帰りの営業車で人を轢いたのである。雨による視界の悪さと疲労が重なってブレーキが間に合わなかった。

 相手にも過失がなかった訳でもなかったが、壬生は争うことをしなかった。

 通夜、愛する夫を失った被害者の妻、桜庭久美子は「人殺し、あんたを許さない」と壬生を罵った。

 彼はただ頭を床にこすりつけるだけだった。

 その場を辞する時、視線が合った中学一年生の娘の冷たい眼差しに事態の重さをさらに思い知らされたような気がした。

 事故の後、彼は久美子に対する償いのためにそれまで以上に働いて、毎月仕送りを続けた。

「ありがとう。あなたの優しい気持ちはとてもよくわかりました。だからどうぞ送金はやめて下さい。あなたの文字を見るたびに主人を思い出して辛いのです。あなたご自身の人生をもとに戻してあげて欲しい」事故から七年の月日が経ち、久美子から初めて届いた便りには、様々な苦悩や葛藤の末に導き出されたであろう、彼への許しが綴られた。

(手紙の中身はどうでもよかった。償いきれるはずもないあのひとから返事が来たのがありがたくて…)

彼はその晩、ひとり泣いた。

「キミ、おとうさんは」

「なんですか?いきなり」

「あっ、いや…すまん」壬生は口ごもった。

「いません。わたしが中学生のころ、車にひかれて」語尾に忌々しげな響きが籠もっていた。

 壬生は血の気がひいてゆく思いだった。

(奈保子は久美子の娘だ。間違いない。あの時オレを見つめていたのは奈保子だ。オレが加害者ってことに気づいているのだろうか、なにしろ十六年も前のことであるし、なんといっても苗字が変わっている…)

 事故を起こした時、壬生は独り身で後に結婚して亜希子の家の養子に入ったのである。

「おかあさんは?」

「…どうしてそんなこと。まあいいや。おとうさん死んでから、別のひとと一緒になった」

「そうなんだ…」

「なんか壬生さん、へん…」

「すまん」壬生は頭を掻いた。

「女手ひとつでキミを育ててきたんじゃ、おかあさんも苦労したんだろうな」

「…そうね」奈保子は目を伏せた。

「でも、かあさん、とうさんが死んでからいくらも経たないうちに他の男のひとと一緒になったの」

(再婚してたのか…)

「新しいひと、優しくしてくれたし、大学まで出してもらったから感謝しているわ。でも、弟、新しいひととの子だけど…ができてから、おかあさんそれまでとは変わっちゃって…なんか、嫌いになっちゃった」

「…」

「それもこれもあの男のせいよ」

「あの男?」

「おとうさんを轢いた男のこと」

(やっぱり…)

 償い切れるはずのない事実を突き付けらた壬生は打ちひしがれた。

(償う?オレはこの娘に惚れているのではなかったのか…)

 壬生は自問自答した。

「その男、実はオレなんだ」

「えっ?まさか」奈保子は体を起こした。壬生も体を起こした。

「だって、名前が違う」

「その男は神崎七郎じゃないか」

「どうして…」

「オレは別れた女房の家の養子に入って壬生になった。さすがに下は変えられないが…亡くなったおとうさんの名前は武美さん。おかあさんは久美子さん。間違いないよね」壬生の淡々とした口調が部屋の空気を薄めてゆく。

―はあ…

 無言の奈保子の吐息が響く。

「罪は償い切れないことをキミの言葉で気づかされた。オレは会った時からキミのことをあのときの中学生ではないかと感じていたが今日の話で確信した。オレはキミの前にいてはいけない存在だってこともね。黙っていてごめん」壬生は一気に話した。

「…」

「こうして会うのも今日かぎりにしなきゃないけない」

心とは裏腹の言葉が口をついて出た。

「そんなのいやだ。壬生さん身勝手だよ」奈保子はベッドに突っ伏した。

 そのとき、庭から吹き込んだ風が奈保子の髪を揺らした。

 壬生は立ち上がると障子戸を開け、庭に面したアルミ扉を開け放った。

「寒いよ」奈保子が壬生の隣に立った。

「ほら」壬生が夜空を指差した。

「あの明るい星わかる?」奈保子が首を傾げた。

 壬生が指差したのは下弦の月に寄り添うようにして、ひときわ明るく輝く木星だった。

「壬生さんは壬生さん。神崎さんじゃないわ。ねえ、わたしじゃだめですか?保険金の受取人」奈保子が壬生を見上げた。

「…」壬生が奈保子の白い肩を抱いた。

 車窓に映る操車場の闇の中に、雨に洗われた現役の寝台特急、使われなくなったブルートレイン、無蓋貨物車両などが常夜灯に照らされて輝いている。

 自身の心も洗われたような気がして壬生七郎は清々しささえ覚えていた。

―完―

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