短編小説#17
一
葬儀を終えて家(うち)に戻ると荷を床に落とし、明かりも点けずに脱力したように横座りになった。窓から切り込んでくる月明かりに照らされた文机に肘をつくと両手で顔を覆った。葬儀の席では気丈に振る舞っていた亜希子の肩が小刻みに震えた。
ハンドバッグの中で携帯電話が震えた。病室を引き上げる時にバッグに入れた夫のものである。おそるおそるそれを取り出す。震えが止んだ。メールの着信がある。
【他人のものをのぞくなかれ】外国のことわざが亜希子の頭を過(よ)ぎる。
(…のぞいて良いの?)
自問しながらも夫に尋ねてみたが、夫の答えを待つこともなく亜希子はボタンを押した。気道の奥が膨らんだ。
…
【奈保子です】表題を目にした途端、亜希子は激しい後悔の念を抱いた。
(後戻りできない…)
さらにボタンを押した。
『七郎さんへ 待ちどおしいな。まだ五日もあるのか…でも、待つのも楽しいかも…奈保子』
悲しみが落胆に変わり、やがて怒りが湧いた。
(なほこ?なおこ…?)
送信者の表示は【なおちゃん】。
(なお、ね。ホステスかしら…そういえば、このところ遅い日が何日かあったわ。お酒はダメなあのひとが…でもお酒なしでも好きなひとは行くって聞くし…)
やり取りの全てを覗き終わった頃には空は白み始めていた。窓から差し込んでくる陽の光が亜希子の憂うつな心待ちを闘争心に変えた。
『私も楽しみにしています…』
亜希子は送信ボタンを押した。
(ドロボウ猫め!)
亜希子は心の中で吐き捨てた。
…
『…ごはん食べた。七郎さんはまだかなあ。七郎さんもちゃんとごはん食べてくださいね…』
『もう食べた。言われなくてもそうしてる』
『…ちょっとだけ憂うつな気分(>_<)、でももうじきだと思えば前向きになれる…』
『…ともこちゃん、今日は学校いけたかなあ…』
『…行ったけど』
(どうして、始子のことを…)
『ともこちゃん、学校いけたんだ。よかった。ほめてあげるとよろこぶよ。きっと…』
(わかったようなこと言って…)
『…ごはん残した。少し熱が上がったから。七郎さん、今日、なんか素っ気ない。七郎さん、忙しいからね…』
『…そう、忙しくしているから、素っ気ないの』
『七郎さんじゃないみたい(笑)…熱下がった。クスリが効いたのかなぁo(^-^)o…でも、モノがなんだか暗く見えるような気がする。メガネしてもベッドから見えるお月さまも左右の視力が合っていないのか歪んでる…月曜日は会えるかなぁ…』
『…』
『ごはん食べられない。頭がいたくて、それに体に力が入らないの。メール打つのもたいへん (>_<) 早く明日にならないかな…』
以後、奈保子からのメールが届かなくなった。
(夫のこと、わかっているのかしら。そんなわけないか…)
二
半年あまり前のことだった。上司を見舞った病院で一方は義肢、もう一方は膝から下を失った少女と目が合った。少女の表情に小さな驚きが浮かんでいた。
(どこかで会ったか…)
松葉づえの使い方があまりに不器用で危なげだったから、壬生はたまらず少女に近づいた。
(始子よりは少し上か…)
壬生は少女の目を見張るほどの華麗な顔だちに宿った底知れない不安を見てとった。
「手を貸そうか」少女はそれに答えずに壬生の顔を見つめながら何かを思いだそうとしている様子である。
「ちがうひとだ」少女はつぶやくと、「ごめんなさい」頭を下げた。
「いや、いいんだ。大丈夫だね」
「あっ、はい」微笑んだ少女の愛くるしさに壬生は息をのんだ。
「それじゃ」壬生が背を向けると、
「あの、少し時間ありますか」少女がのぞき込むような眼差しを向けた。
…
ブーン、待合いスペースで自動販売機が唸った。
「そうか、そんなに似ているのか。『世の中には自身に似ている人間が何人かはいる』なんて聞くが、そんなところかな」
「そうですね」
「そんなに立派な先生に似ているなんて光栄だ。でも、その先生、決して二枚目じゃないね」壬生が笑った。奈保子もつられるように笑った。
「さっきよりずいぶんと顔色がいいよ」
「そうですか…」奈保子の頬にかすかな朱が差していた。
「そろそろ帰るよ」腕時計に目をやった壬生がベンチシートから腰を上げた。
「また来てくれますか…」
「それはかまわないが、ぼくみたいな他人が出入りしちゃ、キミにもご家族にも迷惑だろう」
「大丈夫です。母には話しておきます」
「わかった。また来るよ」
「きっとですよ」立ち上がろうとした奈保子がよろけた。とっさに壬生が抱きとめた。
「すまん」身の置きどころを失ったかのような心持ちになった壬生は詫びた。
こうして二人の交際が始まった。
三
壬生は週に一度程度、いい女でもできたか、そう冷やかす同僚を尻目に、仕事を早く切り上げて奈保子を見舞うようになった。いつしか、壬生は家族のことを話すようになった。女房の天然のボケ具合、ごっつい芸人似の彼女のできない息子の話、不登校になった娘の話…、奈保子はうれしそうに笑い、ときには深刻な表情を浮かべながら、壬生の話を聞いていた。
…
ある晩のことであった。“七郎さん”奈保子はいつしか五十の半ばにさしかかった壬生のことをそう呼ぶようになった。
「窓のところまで連れて行って」奈保子は大儀そうに体を起こした。
「どうしたんだい」
「月がみたいの」
奈保子は壬生に支えられながら窓辺に寄ると窓に顔を近づける。
「きれいな月」壬生も窓の外を見る。
九月の夜空に、触れれば切れるような三日月が浮かんでいる。
「三日月か」
「そう。わたし三日月が好きなの」奈保子が月を見つめたまま答える。月の光のように青ざめた肌が妖気さえを放っているように見える。
「ねえ七郎さん、ともこちゃんに会わせて欲しいの」奈保子が向けた瞳のなかには尋常ならざる意志が宿っている。
「どうしたんだい、突然」
「なんか友達になれるような気がして…」
「そうか、始子もよろこぶよ。確かめてみる」
「ありがとう。図々しさついでにお願いしちゃうけど、わたし、今度の月曜日、誕生日なの。二十八歳。プレゼントがわりにお願いしてもいい?」
「…月曜日か、急だな。娘に頼んでなんとかするよ」壬生が胸を叩く仕草をした。奈保子が笑った。
四
「あなた、そんなところでゴロゴロしているんだったら買い物でも行ってきてよ」
久しぶりのまとまった休みが取れた七郎は扇風機の前で新聞紙を顔に載せたままうたた寝をしていた。遠くに聞こえる亜希子の声が自身に向けられていることを夢うつつの中で理解していた。
七郎はゆっくりと体を起こすと油気のない髪を掻きながら焦点の定まらない目を亜希子に向けた。
「せっかくの休みなんだから始子でも連れて買い物に行ってきてよ」
(せっかくの休みなんだからこそゆっくりさせて…)という言葉を七郎は飲み込んだ。
「始子がついてくるかね」
「そんなの聞いてみたらいいじゃないの」
「ともこ!」七郎が声を上げた。
…
意外なことに始子はついてきた。始子はある女友達との間合いが計り切れなくなって不登校になった。やっとの思いで高校生になれたのであるがムラがある生活を過ごしている。友人付き合いはほとんどない。
…
「ともこ、おでん食べていくか」
「うーん…でもかあさん、ごはんつくってるんじゃないかなあ」
「出かける前に、そうなるかもしれないって言ってある。たまには、かあさんにもゆっくりしてさせてやったら良いと思ったしな」
「じゃあ、いく」始子の表情が緩んだ。
「こんばんは」声をかけながら七郎はのれんをくぐった。
…
「おいしかったね」
「うん、今度はかあさんと来ようよ」始子は瞳を輝かせて言った。
二人が座った車両は日曜日の夜だったこともあって空きが目立っていた。
「ちょっと疲れたな」七郎が声をかけると始子は小さく頷いて目を閉じた。七郎も目を閉じた。酔いも手伝ってか列車の心待ち良い揺れにまどろんだ。
…
騒々しい音に目を覚ました七郎が顔を上げると車窓の外の掲示板に降りる駅から数えて二つ手前のターミナル駅の名前が読めた。
酒に酔っているのか数人の男が声を上げている。「起きなさい」七郎が始子の肩を揺する。
ドアが閉まり列車が動き始めると優先席の老女の前に立ちはだかるようにして大声で話しているのは先刻の男達のリーダー格と思しき男だった。
次の駅に近づいた列車が減速し始めたのと同時に男達に囲まれるようにして座っていた老女が立ち上がった。前のめりになった列車に背中を押されるように体のバランスの失った老女はその男に倒れかかった。
「ばあさん、なにしやがる!」男が老女を怒鳴りつけた。
「…ごめんなさい」老女は腰を曲げてすまなそうに頭を下げる。
「どういうつもりだ、このババア!」まわりの人間はそのやり取りを眠ったふりや携帯端末に指を滑らすなどして無関心を装うようにして誰しもが黙っていた。
列車が駅に着き、ドアが開くと別の車両に乗り換える者もいた。始子の表情に不安が浮かんでいた。―見過ごすか、ひとこと言ってやろうか、七郎は逡巡した。
だが、列車を降りてゆく老女の惨めな姿を認めた瞬間、「こらっ!おまえら!」七郎は叫んだ。
ドアが閉じたのを確かめた男達が近づいてくる。
「おやじ、イキがってんじゃねえよ」リーダー格の男が振り上げた拳がまともに七郎の鼻先にめり込んだ。キャーっ、誰かが悲鳴を上げた。
七郎がその場にもんどりうって倒れた瞬間、手摺りに後頭部を激しく打ちつけた。あお向けに倒れた七郎は白目を剥いて泡を吹き出した。
「とおさん!」始子は立ち上がったまま七郎を見つめる。男が青ざめた顔で立ち尽くしている。その表情はハタチそこそこのヒゲの生え揃わないあどけなさの残るものだった。
列車が駅に着くと男達は逃げ出した。事態を見ていた者のひとりが大声を上げながら最後尾の車掌に向かって走り出した。倒れた七郎のそばに転がった買い物袋を始子が拾い上げたとき、複数の足音が近づいてきた。
五
「ごめんください」
秋の気配が深まった日曜日の午後、七郎の四十九日が明けた頃、亜希子は突然の来客を受けた。
年の頃は同じくらいか。「わたくし桜庭奈保子の母親で久美子ともうします」
(なおこ…)
「なおこの生前はご主人にはお世話になりまして、ご主人に直接お礼を申しあげなければならないところですが…」久美子は恭しく頭を下げた。
「そんなところではなんですからお上がりになって…」亜希子は遠慮する久美子を家に上げた。
…
「むすめの四十九日も明けたのでお礼を、と思いまして…」久美子は七郎の遺影に向かって手を合わせると向きなおって、淡々と話し始めた。
奈保子は中学一年生の秋に膝から下を失くした。
父親の仕事の都合で地方都市に転校した。転校先の学校では脚がないことを理由にいじめに合った。不登校になって自死も考えたが担任教師に無くしかけた命の大切さを諭された。
大学に入学して、できた恋人の親の理不尽な言い含みつまりハンデを背負っていることの将来への懸念に心が揺れる彼との距離感が広がって恋愛関係が破綻した。
そんなタイミングで病気が再発した。余命を悟った奈保子の前に壬生が現れた。
「むすめはともこさんと会えることを楽しみしていたようでした。不登校のつらさを共有できると思ったのでしょう」久美子は遠くを見た。
「ご主人は娘が逝ったその日に娘にともこさんをご紹介してくださる約束をしてくれていました。その日は奈保子の誕生日でした」
そこまで話すと久美子は両手で顔を覆うと嗚咽した。
「ともこ、そうだったの…」久美子が隣に座った始子に尋ねた。始子は小さく頷いた。
…
久美子が立ち去ると、亜希子はひとり縁側に立ち、すっかり薄れきった陽に照らされた蜜柑の木にようやく黄色をつけはじめた実を眺めていた。
「ともこ!」亜希子が声を上げた。
返事がない。玄関に走る。始子の靴がなかった。
乱暴に扉を引くと亜希子は裸足のまま表に飛び出した。
亜希子の視線の先には、長い髪を秋風に梳かせながら駆け足で遠ざかって行く始子の姿があった。
―おわり―