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【短編小説#26(官能小説(前編))】


(共通の友人の伝手(つて)で、桜庭奈保子は資産家の親から相続した貸家に壬生七郎を住まわすこととなった。奈保子は夫と死に別れ、七郎は妻と生き別れたばかりであった。寿命を迎えて燃え尽きる寸前に強い光を放つ名も知れぬ星のように枯れようとする最後の性の炎を燃やす中年男と横溢な性の盛りを持て余す、もう若いとはいえない女とが歓(かん)を交わすのは自然の成り行きであった。ふたりは刹那の快楽を貪りあった。)

 春のぬくもりに微睡み(まどろみ)始めたとき、玄関の呼び鈴が鳴った。

(もう、そういう仲でもないものを…)

 七郎はそう思っているが奈保子はそうはしなかった。

 奈保子には意識的にそうしている節(ふし)がうかがわれた。

 歓を交わすこと以外は節度を保っておきたいという意識は七郎の思いと一致するところでもあった。

 七郎は懶げ(ものうげ)に起き上がり、玄関に降り、戸を開けるとそこにはやはり奈保子の姿があった。

 背中から当たった陽が奈保子を影にしていた。身体の線を強調した紺色のワンピースの肩の部分からは程よく肉付いた青い血管が透けて見えるくらいの白い腕が惜しげもなく露わになっている。

「あがっていいかしら」七郎が答える前に奈保子は、つばの広い帽子を取り、サングラスを外し、ヒールの高い青いバックスキンのパンプスから足を抜き、玄関を上がるとネイビーカラーのストッキングに包まれた足先をスリッパに入れる。

 奈保子には意識的ではないではないであろうが、七郎にとってはストッキングに包まれた奈保子の脚は撫でさすりたいほどに扇情的であった。

「冷えますね。でも、駅前の最近建ったマンションの入口辺りには桜が咲いていました。痩せた木に花がちらほらと…つぼみが開いたばかりの…二分咲きっていうのかしら。新しい建物の桜の木に花が咲くって可笑しな話ですよね」

「おかしいというのは…」

「桜が花を咲かすにはそれなりの時間がかかるものじゃないかと思うんです」

「ああ、そういうことですか…どこからか持ってきたんじゃないでしょうか」

 そんなとりとめのないことを話しているだけで壬生の心は満たされていった。別れた妻のこと、子どもたちのこと、仕事のこと…危うくて、何も確からしさのない奈保子と過ごす時間だけがそれらの厄介事を忘れさせた。

 七郎は駅前のホームセンターで買った折りたたみのテーブルを広げると蛍光灯の紐を引いた。

 庭から差し込む陽を背にして座った奈保子の姿は影となっていたが、口紅の色だけが際立って赤く映った。

「冷たいですよ…」七郎はペットボトルの茶を湯のみに注いで奈保子に差し出した。

「あの…」七郎の言葉を遮るようにして奈保子が言った。

「今日はわたしのことを知っておいて、いただいたほうが良いと思いまして…」奈保子は目を伏せた。

「…ん、どうして…ムリにそうしなくてもいいんですよ」

「いえ」奈保子は顔を上げて七郎を見返した。

 奈保子は膝を崩すと話し始めた。

 幼い頃、自身の目の前で暴漢の手で父親を殺害された経験を一気に話した奈保子はペットボトルに口をつけた。

「つらい話ですね」

「…」奈保子は遠くを見るような眼差しを庭の方に向けた。

 膨らんだ部屋の空気に嫌気がさした七郎は立ち上がると、障子戸を開け、廊下の向こうの格子戸を開けた。

 庭から流れ込んだ春の風が奈保子の肩に掛かった髪を揺らした。

「息苦しくなったもので…寒くないですか」七郎はそう言いながら奈保子の前に座り直した。

「平気です…わたし、そのせいか男のひとがこわくて…」

「…でも、ご主人が…」

「ええ、母が心配して、あるひとの伝手で見合い話を持ってきて、それで一緒になったのが死んだ主人なんです」

「…」

「母を心配させたくなくて、それだけで一緒になったんです」

「それだけで…ってことは」

「そうなんです。わたし、主人を愛していたわけではなかったの…」

「…」

「わたしにとって、主人は夫としては、ほとんど完璧なひとでした」奈保子はこれまで見せたことのない妖気に似た笑みを作った。

「ほとんど…」

「ええ、ほとんど…」

「ほとんど、完璧…ですか」奈保子の話す文脈の欠落した部分に七郎は興味を抱いた。

「わたしって変なんです」

「へん…?」

「わたしには変わった性の嗜好があるようなんです」

「それは一体どういうことなんですか」奈保子は答えずに続けた。

「…夫はそんなわたしの嗜好を毛嫌いしていました。あるとき、そんな嗜好を満たしてもらおうと思いきってお願いしてみたんです。もちろん夫は拒否しました。それ以来、夫がわたしを抱くことはありませんでした」奈保子は頬を染めて俯いた。

「なんですか?その嗜好って」

「…言ってもいいのかしら。壬生さんにまで毛嫌いされたらわたし…」

「そんなことはしません。…いや、ムリにとはいいませんが…」七郎は故意に突き放すような言い方をした。

「じゃあ、いいます。毛嫌いしないって約束してくださいますよね」奈保子は七郎を覗き込むようにして言った。

「し、縛って、自由を奪って、羞め(はずかしめ)てって…」奈保子の瞳が潤んだ。

(マゾだったのか、この女…マゾ女なんて男の妄想の賜物かと思っていたが、そんな女が、今、オレの目の前にいるとは…女の望みでオレはこの女を自由にできるってわけか…)

 七郎が性来もつ嗜虐性という蛇が鎌首をもたげ始めた。

 −つづく−

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