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【連載小説#41】(十回目)

 魚彦の野球のことが、その日以来、奈保子の頭を離れなかった。グラウンドへは行けなかったが魚彦がどうしてそんなつらい立場の場所に毎日出かけるのか奈保子には理解できなかった。
 そして、奈保子には気になっていることがあった。それは魚彦が突然、同級生に野球チームに誘われたんだと嬉しそうに奈保子に言ってきて、奈保子が魚彦ふたりでグローブやウエアなどをデパートに買いに出かけたときのことだった。
「ねえ、男の子が一度やるんだって決めたんだから絶対途中でやめちゃだめよ」
 ダイニングに真新しいユニホームを着て立っていた魚彦に奈保子は指切りまでして約束させた。
―あの日の約束のためにつらいことを我慢しているとしたら…
 しかし、魚彦は学校から帰るとすぐにユニホームに着替えて家を飛び出してゆく。
―ひょっとしたら、あの日だけ魚彦はメンバーから外されていたのかもしれないと思い始めた。
―明日、もう一度見に行ってみようかしら…
 奈保子はコーヒーカップを置いた。)

 グラウンドには一ヶ月前に見に来たときよりも大勢の子どもたちがいた。夏休みに入ったこともあるのだろうか、大人たちの数も多くなっていた。

 奈保子は魚彦のチームのユニホームを探した。それはグラウンドの外にある空地にあった。魚彦がキャッチボールをしている。魚彦の相手はひどく小柄な子だった。その少年の投げる球がしょっちゅう逸れて、そのたびに魚彦が球を拾いに行っている。魚彦の投げる球は山なりだけど、ちゃんと相手に届いている。

―どうしてあんな子とキャッチボールをするんだろう…

 しかし、グローブを手にしてボールを投げている魚彦の姿は雑用をしているときよりも眩しく見えた。

 試合が始まった。まだ魚彦はベンチにいる。奈保子の眉間に皺が寄った。今日もずっとベンチにいるようだったら、

―無理して野球にゆかなくてもいいのよ、と話してあげようと思っていた。

 バットを片づけて、ヘルメットを並べて、グローブをレギュラー選手に運んでいる。試合の間中、魚彦はずっとそれを続けている。

―そうだ、あの監督に魚彦が試合に出られない理由を訊いてみよう。奈保子はそのほうが早いと思いながら、ベンチの真ん中に座っている監督を見た。

 そのとき、魚彦が監督に呼ばれた。

 魚彦は帽子を脱ぎ、直立不動の姿勢で話を聞いていた。大声で返事をしている魚彦の声が奈保子の耳に届いた。

―叱られてるのだろうか…

 魚彦は帽子を被ると、身体が弾んだようにバットケースまで行き、バットを抜き出してスイングを始めた。

―やった。

 奈保子は大声で魚彦を応援してやりたかった。

―神様、魚彦に打たせてやってください。

 奈保子は両手をあわせて祈った。野球のことはよくわからなかったが、守備についている魚彦のチームが攻撃になったら、きっと魚彦がバッターとして登場するのだろう。

 ところが、相手のバッターが空振りをすると、ベンチにいる全員が立ち上がって拍手をした。

『ゲームセット!』審判の声が響いた。

―なんだったの、いったい…

 奈保子は自身の頭に血が昇って頬が熱くなるのがわかった。魚彦を見ると、もうトンボを持って走り出している。

―ひどい連中だわ。

 奈保子は無性に腹が立った。そのまま、監督のところへ行って談判しようかと思ったが、魚彦の手前それはできない。魚彦の姿を見るのがつらかった。

 選手たちは監督の周りに円形になって大声で返事をしていた。奈保子はその選手たちから少し離れたところに独りの女性が立っているのを認めた。チームのどの子だかの母親のように思えた。選手たちは監督にていねいに頭を下げると彼らだけで円陣を組んで話をしていた。その女性に監督が近づいて帽子を脱いで頭を下げた。

―きっと誰かレギュラー選手の母親だろう。監督に取り入ってうまくやっているのだろう…

 選手が解散すると、魚彦たちは道具を手にしてグラウンドの脇に停めてあるライトバンに片付けた。

 魚彦が帰り際にその女性に声をかけられている。魚彦は帽子を脱いで頭を下げて、女性が手を引いた少年に手を振った。その少年は先刻、魚彦とキャッチボールをしていた子だった。

 魚彦が急に走って、奈保子のいる欅の木の方に向かってきたので、奈保子は慌ててグラウンドを後にした。

 堤の逆方向へ歩いて行くと、前方にあの女性と少年が並んで歩いていた。近くで見ると、女性の髪には白いものが目立っていた。少年は彼女の子ではないように思えた。

「あの…」

 奈保子が声をかけた。

「はっ、なんでしょうか…」

 振り向いた女性はかなりの高齢に映った。

「つかぬことをうかがいますが、お子さまは南町の野球チームに入っていらっしゃいますよね…」

「ええ、そうですが…孫がお世話になっています。それがなにか…」

「実は、あのチームの監督さんにお会いしたいと思いまして…」

「そうですか、お子さんが…?」

「ええ、そうなんです」

「それなら、今ちょうどいいんじゃないかしら」

「なにがですか?」

「実は、孫が今日で南町イーグルスをやめなくてはならなくなりまして…」

「はあ…」

「とってもいい監督さんですよ。野本さんとおっしゃって、南町の商店街の外れで牛乳屋さんをやってらっしゃるの。本当はうちの孫、チームに入るには年齢が足りないんです」

「年齢制限があるんですか?」

「ええ、小学校の四年生にならないと入れないんですよ。テストもあるんですよ。でも、うちの孫は特別でね、助かりました」

「おばあちゃん、ほら、おじいちゃんが迎えにきてる」

 少年は通りの向こうから手を振っている老人に向かって走り出した。

「しょうじ君、車に気をつけるのよ」彼女は心配そうに少年の姿を目で追っていた。

「去年、あの子の両親は事故でふたりとも亡くなってしまいましてね。わたしたちふたりでは、これから先あの子を育てるのは無理なので親戚に預けることにしたんです。半年の間でしたけど、あの子がわたしたちのそばにいてくれたのは南町イーグルスのおかげなんです。野本さんに事情を話したら特別にチームに入れてもらえたんです。ぜひお会いになってみるといいですよ。本当にいいひとです。それでは…」

 女性は夫と孫の待っている方に歩き始めた。三人とも奈保子の方を向いて、かすかに会釈をした。少年が帽子を振った。奈保子も手を振った。

―つづく―
(12話までつづきます。)

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