【短編小説#9】
(これは、私が一見の酒場のカウンターで聞いた常連の酔客の話ある。)
「この歳になって恥ずかしい話だが、オレは若い女に惚れた。奈保子っていうんだ。女房と死に別れてから、女には惚れることはないものと思っていたのだが…オレが奈保子と初めてあったのは魚彦の野球チームのグラウンドだった。うおひこってのは奈保子のひとり息子のことさ。散歩の途中に足を止めたのがきっかけで、『振らなきゃ当たらんだろがっ!』見ず知らずの三振をした魚彦に向かってつい、大声を上げたのが運のつき…で、どうにも取り込まれるような恰好でそのチームのコーチなんか引き受けることになってしまった。もっとも高校時代は野球漬けだったから、門外漢ってわけじゃないがな」
…
「奈保子には亭主があった。地方の金融機関に勤める実直な男だった。その亭主はある暴力団のフロント企業に対する融資を巡ってトラブっていた。勤め先に知られずに、自らトラブルを片付けようとしてヤクザの事務所に出入りするうちにヘタくったようで、結局、自死したらしい」
「こわい話ね。ところで、壬生さん、その奈保子さんとどうなったのよ?」女将が口をはさんだ。男は“みぶ”というらしい。
「なんにもない」
「どうして?」
「どうもこうもない。今は、オレにはこいつで間に合っている」壬生は隣の女を見た。
「間に合ってるって…」女は壬生を睨みつけながら頬を膨らました。
「そんな怖い顔するなって。アキコ、お前が一番だよ」壬生はおどけたように言った。
…
「この前の日曜日だった。朝露の降りた雑草の中に転がったボールを拾い上げて顔を上げたとき、奈保子がダボシャツの男と話をしている姿が目に入った。二人はしばらく話し込んでいたが、男は奈保子の両肩に手をかけて何か言い聞かせるようにすると離れていった。(あいつだ…)オレは確信した。その横顔と歩く姿は、昔、オレを売った男だった。どんなに時が経ったって、その人間の生きざまは姿かたちに色濃く現れるものだ」
「そうかもしれないわね」女将がカウンターの内から猪口を壬生に渡した。連れの女が男に銚子を差し出すと男は酌をうけながら話を続けた。
…
「どうして差別をうけるのか、その訳を知ったのは中学の頃だ。出自だけでそうされる理由を考える前に若さゆえの拗ねた狂気が激しい出方をした。ある時、オレを売った相手を徹底的にヤッた。同胞だったから余計に許せなかった。そいつはオレの前から姿を消した。それが奈保子に近づいてきた男だ。間違いない」壬生の声が大きくなった。
「本当なの?そんな話ってあるのかしら」女将は壬生の前に銚子をおいた。
…
「まあ、聞いてくれ。どうせおだやかな話じゃないだろうから、男とどんな話をしたのか、奈保子に聞いてみたんだ。最初は渋っていたが、やがてはなしはじめた。『あんた確か息子がおったな。亭主がおらんようになって何かと不便やろ。わるいようにせん。ワシが面倒みたるわ』男がそう言ったらしい。ヤツに決まっている。奈保子の亭主を追い込んだのもヤツだ。あの外道め!」壬生は唸るようにつぶやいた。
「あんまりこわい話しないで」女将が肩をすくめた。
「勘定してくれ」
「あら、ずいぶんと急ね」
「ああ、オレにも用事ってものがあってね」壬生は福沢諭吉をカウンターに置くと亜希子を置いたまま店を出ていった。』
―完―
数日後、近くの港に繋がれた漁労船の中で両腕のない中年男の死体が見つかったことをニュースで知って、ぞっとしました。