ヤスヒコおじさん①
人生は色々なモノで出来ている
「鳥人間」
従妹たちからは「ヤスヒコおじさん」と呼ばれていた。
それが私の父である。
私が13歳の時に母は胃がんで若くして他界し、父との二人暮らしとなった。
「お父さんは鳥になるんだ。」
母がいる時から時々そう言っていた父。
テレビの「鳥人間コンテスト」が大好きでいつも楽しそうに応援をしていた。
もちろん私も一緒に。
あれはいつだったのか良く覚えてないが、多分母が亡くなって1年経過をしていたのかもしれない。もしかしたら半年だっただろうか。
大きなハンググライダーを買って帰宅した。
最初は近所のやや土を小盛りをした山と広い空き地がある場所で練習をしていた。
いつからか週末は仕事用のワンボックスカーにグライダーを乗せ箱根の山へと通うようになっていた。時々、目を輝かせて空から見た風景や風を感じた話を私に聞かせてくれる。
私はちょっと放任されている状況ではあったが、叔母たちが何かと気にかけてくれていたのでさほど困ることはなかった。
ある週末の部活動が終わり学校から帰宅をすると、叔母が西日が差す客間で洗濯物を畳んでいた。
私は叔母の顔つきが普段とは違っているように思え、帰宅の挨拶をしてから
「おばさん、お父さんは?」と尋ねた。
ちょっと間があり
「ハンググライダーで墜落をしたんだって。」と返答が帰ってくる。
私は一人になってしまうんだ…そんな思いが一瞬頭をよぎったのを今も良く覚えている。何十年も経った今もあの時の西日をふと思い出す。それほど衝撃的だったのだろう。
「違うよ。アオ。大怪我をして骨折して入院してるんだよ。お父さんは生きてるからね。」と叔母が覆いかぶすかのように言葉を足してきた。
叔母の話をまとめるとグライダーをコントロールしきれずに失速をし、約200メートルの高さから墜落をしたとの事だった。
骨折箇所は背骨。
1ミリ折れた箇所がずれていたら半身不随になる可能性があったと医師から伝えられたそうだ。
幸いだったのは墜落しながら木々に引っかかった事。そして父は昔からスポーツが得意で俊敏、小柄ながら体全体が比較的筋肉質であり、仕事で体を使うことも多かった。
もしかしたら命を落としていてもおかしくはない状況だった。しかし幾つかの好条件が重なり免れる事が出来たのだ。
それから約3ヶ月の間、父は入院生活を過ごし後遺症も特になく無事に退院を果たした。
ちなみに父が65才を過ぎた頃だろうか。父が背中を庇う様な歩き方をしていると叔母に言われた。
もしかしたらこの時の負傷が原因かもしれないと叔母と話をした。
帰宅をした父は退院を喜んだのもつかの間で、すっかり元気をなくしてしまいややしぼんだ様に見えた。
後に従妹に教えて貰ったのは、それはそれはお見舞いに来た叔父・叔母達にキツくキツくお説教をされたとの事。
「アオ(私)がいるんだぞ。お前に何かあったらどうするんだ?」
「父親だから危ない事をするな」などなど。
ベッドを囲まれ散々絞られたようであった。
今は父親が色々とやらかしてくれたので付き合いは殆どないが叔父や叔母、従兄弟達には本当に本当に沢山お世話になった。
そして父親に「危ない事をするな」と忠告をしてくれたのは最もな事だし、感謝もしている。
ただ、後の父親の壊れっぷりを思う度に私は父にハンググライダーを続ける選択肢をあげたかったなとも思う。
せめてハンググライダーではない何かを勧めれば良かったのかもしれない。
実は私自身も娘3人が小さな時に突然夫が他界をした。
後に私は娘の影響で硬式テニスを始めることになる。テニスをしている時間と仲間といる時は心の底から楽しく悲しみを忘れる事が出来た。
人は好きな物があると随分と違うものだ。
父のやらかし具合を思い出しながら良くそう思ったものだ。
仕方がないが私は幼かった。
良く事情が理解が出来ていなかったのは否めない。
周囲に従うしかない。
この辺りから好きなことを止められた父は母を失った寂しさにぶち当たることになる。
優しかった父が壊れだす。