Driving
僕は今日は祖父母とともにドライブに行く。こうした平穏な日常の記録を残す事は当たり前のようで実は非常に貴重なものだと思う。衒学をして馬鹿みたいに論文のような文章を書くのも改めないといけない。ドライブだ。和歌山の土地を周遊する吟遊詩人の如く、僕は和歌山の精髄を味わう。もう明後日には京都に戻り一人暮らしが始まる。自分の中で支配的になりつつある自立する為の勇気。これは大変喜ばしい事だ。
ところで僕は甚だ不安である。僕が自分を律して、健康で文化的な最低限度の生活をする事が出来るだろうか?また部屋に籠もり、社会的な要請を遮断し、恋愛とも無縁な生活を過ごしてしまうのではないかという恐れもある。悩みは訪問看護や主治医に話そうと僕は思っている。悩みを聞くのが彼らの生業だ。如何に卑俗で劣悪な悩みでも憚らず口外し、自分というものを明晰に認知し、その上でより良い、善良な未来を闊歩するのだ。
僕自身の胸に巻き起こる様々な感情。その滾り。僕は多くの人々に嫌がらせをされた。それらは全て統合失調症による被害妄想だろう。しかし僕が深く傷ついたのは事実だ。誰にも罪はない。そして統合失調症のおかげで友達はほとんど僕から離れて、僕自身も人との関わりに慄然とするようになってきた。
ドライブは良い機会だ。このような僕の感性をリラックスさせる良い機会だ。全てを不問にし、溜飲を下げる事だ。それは不条理に思えるかも知れないが僕にとって自分が出来うる限りの最善手である。
僕は自分が思う程悲劇的な人間ではないし、他人も僕なんかを気にしたりしていない。社会で生きる為にはそういった現実を認めた上で自分の選択をしていくというのが重要である。昔の僕は他の追随を許さない存在になろうと奔走し、高尚な趣味で頭を横溢させた。外での喧騒や雑踏を忘れようと努めていた。
統合失調症の悪夢が終わり、新たな人生が始まった。僕はこの人生をどう生きるべきだろうか。10代から20代前半までの乱痴気騒ぎ、黄金時代を僕は統合失調症の治療に総力を投じた。恋愛は出来なかった。統合失調症が薄い膜のように僕を覆って僕自身を隷属させているような錯覚を僕は身に沁みて感じた。
また僕の文章は社会で持て囃されるような秀逸な代物ではない。独特な文章だがそれは名声を得るものとしては一般的なものではない。僕自身も常日頃からもう少し良いものを作ろうと暗中模索している次第である。
さて、今日はドライブ。
粗製乱造に痺れを切らし、コンフォートゾーンへ向かって。忌まわしい退廃、厭世、虚無、懶惰、打擲を投げ捨てて。僕の社会的再生から端を発する物語を始めよう。
とこんな事をエックスの活動では飽き足らず熱弁してみた。