元気

 僕は今日朝に散歩に出かけた。前日から早寝をして、用意周到であった。僕は最近マックを食べるユーチューバーの動画を見て、それに影響されマックを食べたくなったからだ。しかしマックまでの道中、やはり母親が用意してくれた食事を放置するのは勿体ないと思い、家に戻り、マックに行くのを渋々諦めた。明日マックに行こうと思う。まあここのところ散歩も続いているし、消費カロリーも増えているだろう。食欲が湧くのは、滾るのは自明の理である。
 また僕は夕方に父親と温泉に出かけた。今日は人が非常に混雑していた。それでも駐車スペースに車は置けた。温泉でリラックス出来た。今でもすこぶる落ち着いている。狂気の跳梁により、たまにパニックを起こす事もある僕だがこうしたリフレッシュ出来る時間を意識的に、能動的に取り込んでいく事で病気を解消出来ると思う。僕は今日も幻聴と被害妄想があった。女子高生が僕の方を見てロン毛とか言って嘲笑していた。僕はその声を聞いた時余りにもショックで佇立したまま凝固した。非常に緊迫した場面が散歩では多い。僕は外に出る度に嫌な思いをするので外や人に戦慄している。それはコミュ障を端緒としたものではない。統合失調症という夾雑物による耐えがたい虐待が僕を襲い、五臓六腑を抉るのだ。
 統合失調症という名称も本当は使わない方が良いのだろうか。しかしまだまだ社会には統合失調症に対し、誤謬が蔓延っている。だからと言って以前の僕のように積極的に啓蒙活動をしていくのも飽きた。僕は自分の普段の楽観的で人々に元気を与える活動によって勇気と優しさを与えたい。僕はこれでも癒しキャラを目指しているんだ。よく他人に道を聞かれるし、頼りがいがあると思われやすいのかも知れない。
 僕の中学までの偏見のコレクションは灰燼に帰した。今は全く異なる世界を見ている、それも統合失調症という艱難辛苦により独特の色彩を帯びた人生なのかも知れない。しかし人は誰しもがフィルターを通して物事を見ている。この辺りはドイツ観念論やらカントの認識論なんかも絡ませて表現可能かも知れない、僕は敢えてそれをやらないが。
 統合失調症を一般化する事も必ずしも社会に対し、或いは個人に対し、利益を与えるものではないのかも知れない。何でもそうだが十把一絡げに扱う事で自分が知悉の大賢者になったように思うのは些か短絡的である。まあそういう自分もその悪癖を治せていないのだから同じ穴の狢である。自分のしてきた事を棚に上げて全て体系化、理論化していく事も僕は嫌になってきた。もっと控えめな生き方を、細々とした生き方を僕は乾坤一擲に実践していきたい。
 しかし苦痛についての僕の記事が人々の心に余波を与えているのかどうか、僕には分からない。苦痛が共感を呼び、人々を感動させるのだろうか。でもスキをされるのは決まってそれほど力を入れていない、私小説傾向が並外れて発揮された記事ばかりなのでもしかしたらそんな傾向もあるかも知れない。しかしそれは見当違いなのかも知れない。暫定のサンプルの少なさから、これに対し、強引な結論を導き出すのは時期尚早だ。僕は尚も静観していかないといけない。
 僕の心は、騒然としている事が多い。しかし最近は落ち着いている。孤独感が緩和されつつあるのかも知れない。20代とは気力的にも体力的にも物理的にも多種多様な恩恵を預かれる爛熟期、激動の時代だという意見も昔はあった。今はどうだろう?少子高齢化が進み、人々の精神年齢も幼いままなのだろうか?政治や経済に関心を持つ人々も少ないような印象も受ける。
 僕は統合失調症で無職だ、そしてその事に後ろめたさを感じている。僕はどうしてこんな細かい、健常者は気にしないような事を故意にピックアップして自分を苦しめようとするのだろう。それでも僕は寸刻前までより自分を褒められ、認められるようになった。京都では登山仲間と一緒に大文字山に登る予定だ。2月頃に京都に帰るから帰ったら無理のない範囲で頑張っていこうと思う。
 この世は非常にユニークで、才気優れる者達が有象無象を船が曳航するかのように進んでいるような感じも幾分か感じ取れた。
 また僕も偉そうな事を言っておきながら全然強い人間ではない。知的にも肉体的にも。政治なんて分からないし、投票もしていない。少し前までは自分の成果を上げた学術論文が権威に認められ、名門大学に、アイビーリーグとかに自分が招聘されるのでは、と明らかに逸脱した、誇大妄想の気が台頭、勃興していたがそれもなくなった。気の迷いというのは悉皆あるものだ。僕自身も他人にそう思うのと同時に自分にもそう思わないといけない。僕は元気だよ。すこぶる元気だ。しかし自分で元気な状態を維持出来るようにならねば愚の骨頂だ。某アフリカ人が言っていたが空腹の人に魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教える方が大局的に見て優しい、という考え方もある。
 僕の編み出すコンテンツの粗く小さなスクリーンでは見せられるようなものはないのかも知れない。実際秀逸なセリフなどは言えませんし、たまにその状況に少なからず憂慮し、胃がよじれるような感覚を感じる事もある。僕は歴史上の非業の死を遂げた先人を思い浮かべ彼らを自己同一視するようになった。まあでも、今の僕は元気だ。明日も元気で行こう。僕にも皆さんにも幸あれ。

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